蒐 書 記

Libris novitas lenocinatur 新奇さは書物に魅力を與ふ



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「シューマン生誕200年」『思想』2010. 12(岩波書店 2010年)

 雑誌特集ではあるが、たいへんに優れたもので、これだけで単行本化されてもおかしくないくらいの仕上がりになっている。冒頭の「思想の言葉」での岡田暁生「青春の音楽のパラドクスとシューマン」で、シューマンの作品の展開が、古典的な主題と展開という媒介の作法に拠らずに、執拗な「音細胞」の反復と、無媒介的で唐突な変化を中心としているという印象的な指摘に始まり、シューマンの複数の側面が、バランスを取りながら論じられていく。シューマンの歿後、ヨアヒムやクララ・シューマンの判断によって、最終的に作品集に収められることなく、いわば抹消された「ヴァイオリン協奏曲」と「ヴァイオリン・ソナタ第三番」について、アドルノ的な「晩年様式」という論点と絡めながら、実に刺戟的で現代的な観点から論を展開する椎名亮輔「シューマンの晩年様式」、ベートーヴェンによってドイツ文化の中に偏執狂的病根のように受けつけられた交響曲というジャンルをめぐる格闘を描く吉田寛「歴史の空白とジャンルの闘争」、音楽ジャーナリストとしてのシューマンを扱った友利修「音楽新聞紙編集者としてのロベルト・シューマン」、病跡学と音楽論の接点を探った小林聡幸「ローベルト・シューマンの詩と内因」といった書き下ろし論考はどれも充実している。それぞれの論考から、単なる論文の域を越えて、それぞれの視点からシューマンの全体像を描き出そうとする意欲が感じられる。与えられた主題を狭く論じることが多くなりがちな雑誌論文としては、きわめて意欲的で、高水準の仕上がりに思える。

 翻訳で収められた二論考ダヴェリオ「シューマンの<幻想曲>とアラベスク」、ローゼン「ロマン派の時代」がまた秀逸。前者では、「幻想曲」(作品17)第一曲の中間に割り込んできて、曲の展開の必然性を破っている部分を、修辞学用語の「パラバシス」(一般には「転訴」と訳される)と命名し、一種の脱構築的音楽技法として示していくなど、刺戟的な議論がなされている(その点では、椎名論文でも、ヴァイオリン・ソナタ第三番の楽譜の空白個所をめぐる考察がやはり同種の問題に触れている)。そしてこの「パラバシス」と、ロマン派(シュレーゲルなど)の「アラベスク」と重ねる論述も共感がもてる。ローゼンの論考も、ピアノ曲と歌曲を扱って、シューマン論という特集の全体像を裏切らない絶妙の選択である。

 譜例などもきわめてふんだんに引用されているが、単なる楽曲分析に終始するのではなく、そこから音楽の「思想」を語ろうとする姿勢がどの論考にも共通して現れている。以前同じ『思想』でシューベルト特集が組まれたこともあり、これがいささか不発気味に終わったのに比べると、今回は比較にならないほどの充実ぶり。「音楽」を「思想」として語るにはどういう方向がありうるのか、そのヒントが満載である。

(2010. 12. 30) → II-2


Walter Benjamin Archiv (Hg.), Walter Benjamins Archive. Bilder, Texte und Zeichen, Frankfurt a. M.: Suhrkamp 2006
(『ベンヤミンの収蔵庫』)

ベルリンのベンヤミン・アルヒーフが編纂したベンヤミン自身の「手帖」や「メモ」をカラーの写真製版で再現した一冊(といっても、収められている写真などは、元々がモノクロなので、カラーの意味はあまりない。セピア色が雰囲気を醸し出しているという程度)。草稿、メモ類のみならず、ノートの外装の写真から、彼が蒐めていたカード類などが13のテーマ(「目録製作」、「小さなものから微小なものへ:微視的思考」、「事物世界の観相学」、「襤褸収集」など)に即して分類され、ベンヤミンの公刊著作から関連個所を引用し、ノートなどの資料の年代確定や周辺状況が解説されるといった体裁。

 単なる殴り書きのようなメモもあるが、なかには細かい文字でびっしりと埋め尽くされたような草稿もあるので、その部分に関しては印刷体に直されて読みやすく呈示されている。パサージュも含め、さまざまな絵葉書なども集められ、特に「事物世界の観相学」では、ロシアの玩具の絵葉書(裏面にベンヤミンの直筆メモがある)や新聞広告とおぼしきものなどが集められていて面白い。こうした収集を見ると、下記のヴァールブルクとの親近性が窺える。ヴァールブルクが神話的古代のアルヒーフだとしたら、ベンヤミンの場合は、近代世界とガジェットのアルヒーフということになろうか。

 特に「星座(Konstellation)」の項目では、ベンヤミンがおそらく原稿を構想する際にアイデアを書き連ねた図表が収められていて興味深い。さまざまな観念を一群にまとめ、またそれを別の一群と繋げたり重ねたりするチャートなのだが、これなどは、ヴァールブルクのアトラスにきわめて近い発想のように思える。

 組み合わせと解体が平行して進行するところに、こうした試みの生命があるのだろう。「蒐集家の生き様とは、無秩序と秩序の両極のあいだに弁証法的に張り巡らされている」(S. 14)とはまさにその通りで、蒐集家というのは、単に集めるだけでなく、収集することによって新たなジャンルそのものを創出してしまう行為をなりわいとする。そして一度まとまってしまった収集を後生大事に「保存」するのは博物館の役割であって、当の蒐集家はそうした安全管理から逃れて、ふたたび新たな収集へ向かうことだろう。そんなベンヤミンの遊歩ぶりが視覚的に体感できる魅力的な一巻。

(2010. 10. 31)


A. Warburg, Der Bilderatlas MNEMOSYNE, hg. M. Warnke unter Mitarbeit von C. Brink, 3. Aufl., Berlin: Akademie Verlag 2008
(ヴァールブルク『図像集成 ―― ムネモシュネー』)

 ヴァールブルクが構想した図像による思想史・人類史の試みを写真版によって再現する一冊として、ヴァールブルク全集の中に収められた。ヴァールブルク自身の死によって中断された企画であり、その全貌が完成しているわけではないが、彼が残した計画にもとづいて、図版を同定し、ある程度の再現を行っている。約80枚の図版によって構成されている。

 ヴァールブルクの計画は、ある主題のもとに関連する古今東西の図版を大きなパネルに貼り出し、互いの関係によって工夫された位置にそれぞれの図版が配置される。その最初には、計画全体を象徴するような、三つのメタ・アトラスのようなもの(Tafel A, B, C)が置かれている。マップAは、「関係のさまざまなシステム」といった主題で、三枚の図像が呈示されている。「天体図、地図、系統樹」の三葉である。つまりこれらは、人間が宇宙、地理、生命を理解するための三つの代表的関係図というわけである。マップBは、「宇宙的システムの人間への転移」という主題で、これは伝統的な「マクロコスモスとミクロコスモスの照応」を表し、マップCが「擬人的把握からの解放」として、「図像、調和的システム、記号」の表象システムが呈示される。この三マップに続いて、個々の個別的主題のマップが80枚ほど続く。

 この計画は、考えてみれば、KJ法の図像版のような趣をもっている。その意味では、現代から見ると、比較的当たり前の発想のようにも思えるが、文化史の手法として20世紀初頭にこのようなものを構想したというのは、やはりアマチュアならではの自由さゆえではなかっただろうか。いずれにせよ、ヴァールブルク自身の計画がこうして再現されたかたちで「見る」ことができるのは、きわめて喜ばしい。しかし現代では、このような企画はコンピュータやグラフィックを駆使して、さらに流動的かつ生産的に展開できそうな気がする。技術的にはそのサポートには十分なものがあるだろうが、そこに必要なのは知的想像力、あるいはむしろ幻視力かもしれない。

(2010. 10. 28) → III-1


M・フーコー『カントの人間学』王寺賢太訳(新潮社 2010年)
M. Foucault, Einführung in Kants Anthropologie, Aus dem Französischen von Ute Frietsch, Mit einem Nachwort von Andrea Hemminger, Frankfurt a. M. [Suhrkamp] 2010

 フランス語原本が2008年に出版されて、ほぼ間を置かずに今年3月に邦訳が出たのは慶賀すべきことだろう。ドイツ語訳は2ヶ月遅れて、5月にSuhrkampから公刊された。原本自体は、フーコーが『狂気の歴史』を学位論文として提出したときの副論文なので、テクストの成立はほぼ半世紀前の1961年に遡る。カントは、批判書を書きあげたのちに、大学で20年以上行っていた講義をまとめた著作『実用的見地における人間学』を公刊したが、そのフランス語訳を出す際に、フーコーが序文として構想したものが核となっている。カントの『人間学』の成立に関する歴史的経緯とそのテクストの位置づけを叙述した最初の部分は、フランス語訳に付されて公刊され、その部分に関しては、すでにフーコーの『講演論文集』に収められ、日本語訳の『ミシェル・フーコー思考集成』第2巻で読むことができる。しかし副論文そのものはさらに長文で、フーコー自身の独自の解釈が大半を占める。そのため、今回の原本(および翻訳)出版によって、これまで知ることができなかったフーコーの解釈が読めるようになった。

 内容的には、哲学や経験科学の主題としての「人間」をひとつの「歴史的発明」と見る1966年『言葉と物』の議論がすでに先取りされて展開されている。「経験的=超越論的二重体」としての「人間」を前面に押し出す19世紀哲学、およびそのような「人間」像に依拠することで、ある種の思考停止に陥りかねない20世紀の「人間科学」が、「人間学のまどろみ」として糾弾され、有名な「人間の死」を予告する『言葉と物』後半の議論が、すでにこの学位副論文に窺える。それにしても、「栴檀は双葉より芳し」というか、この学位副論文からしてすでに全体を見通す洞察と、それを伝える揺るぎない文体と表現力が備わっているように思える。何よりこの論文を読むと、フーコーがオリジナルな思想家である以前に、まずは一級の研究者であったことがよく分かる。カントのテクストのドイツ語としての特徴をも分析し、さらには問題の多い『遺稿集』(Opus Postumum)まで射程に収めるという周到さが光る。

 カントの「人間学」の構想においては、批判哲学の超越論的な思考の経験的揺り戻しが生じ、それが「人間学」にきわめて複雑な相貌を与えている。フーコーによれば、カントの「人間学」は、批判書が十分に扱うことができなかった、経験的で多様な「散逸」の領域を扱っている。そのため、「人間学」が扱う散逸の時間は、いわば現実的な生の時間であり、『純粋理性批判』における認識論的な時間とも異なる独自の性格をもっている。とはいうものの、「人間学」の理論的構図は最終的には批判書に依拠することではじめて成立したものであり、『人間学』独自の理論を呈示しえてはいないため、「人間」という領域は、最終的に中間的な位置に宙吊りにされたままなのである。つまり『人間学』は、その構想半ばに終わった企画であり、カント哲学全体から見ると、「人間」という問題は、十分な理論的な手続きなしに、いわば密輸入された主題だったということになる。そのためにカント以降、「人間学とは、人間の経験と哲学を非反省的な媒介によって結びつけ、私たちの知の根拠へと向かわせる秘密の道」(160頁)、つまり哲学をなし崩しにする抜け穴を提供してしまったというわけである。要は、カントの「人間学」が呈示する「人間」あるいは「生」の領域は、それ自体としては理論的に維持しがたいというのがその結論である(それを思うと、日本語版の帯に記された「散逸を肯定せよ」という文言はいささか誤解を招きやすい)

 「人間学とは何か、いや、それが哲学の領野全体のなかで本質的に何であるべきかという観点から、あらゆる<哲学的人間学>をしりぞけなければならない。......また人間についての特定の人間学的考察によって出発点と具体的な地平をさだめるような、あらゆる哲学をしりぞけなければならない」(157頁)。そして、本論文末尾の文章。「<人間とは何か>という問いが哲学の領野のなかで辿った軌跡は、その問いを退け、無力にする、ひとつの答えにおいて完結する。すなわち、超人」(161頁)。これは、『言葉と物』第9章「人間とその分身」の一節と見事に響き合う。「文献学的批判をとおして、生物学主義のある種の形態をとおして、ニーチェは、人間と神とがたがいに相互のものとなり、後者の死が前者の消滅の同義語であり、超人の約束がまず何よりも人間の死の切迫を意味する、そのような点を再発見したのであった」(邦訳 363頁)。

 本書の日本語訳は丁寧な仕事振りで、訳文も整っているように思える。何よりも、訳註をかなり細かくつけてあり、しかもその多くは、ある種の「解釈」に踏み込むような積極的な意義をもっている。ハイデガーの『カントと形而上学の問題』との対応や相違にも踏み込んで、読む者の思考を刺激してくれる(ただし、訳註は通し番号になっておらず、章ごとに文章の冒頭の一節をインデックスにして組まれているので、若干アクセスに不便なのが残念)。出典表記も、岩波の『カント全集』をはじめ、既訳のあるものは照合されていて、フーコーの出典表記がカッシーラー版を指している個所では、きちんとアカデミー版の表記を並記しているなど、基本的な処置が丁寧。訳者による解説も高水準で、いろいろと考えさせられる。ちなみにドイツ語訳にも比較的長文の解説(訳者とは別人の手になる)が付されていて、ドイツにおける現代の「哲学的人間学」の現状などにも触れられているが、これはどちらかというと一般的な「解題」に近い。その点でも、今回の日本語訳は、ドイツ語訳よりも優れた仕上がりになっているように思える。

(2010. 10. 21) → IV-3


岡田温司『半透明の美学』(岩波書店 2010年)

 美学・哲学の領域をまたにかけ、とりわけこれまで紹介者のいなかったイタリア現代思想を組織的に翻訳・紹介すると同時に、かずかずの自著を精力的に公刊している著者の新刊。今回もまた主題のセンスが抜群である。従来「透明」と訳されていたアリストテレスの「ディアファネース」概念を出発点としながら、光を通す媒質を表現するその言葉は、実は光源でも物体でもない曖昧な性格、あるいは純粋に透明でもなければ、まったく光を通さない不透明でもない宙吊りの状態を名指すものであり、その意味ではむしろ内実は「半透明」と理解されるべきではないかというのが議論の出発点をなしている。第1章でそうした問題提起をしたあと、第2章が主に古典的文献、第3章で近代芸術、第4章で現代思想を扱うという構成も、この著者らしいスタイルに従っている。章が進むに従って、「半透明」の現象もさまざまに変奏され、両義的な色彩である「灰色」、さらには事物の輪郭を滲ませる「埃」、事物を覆う「ヴェール」など、その項目が次々と展開されていく。最終章では、メルロ=ポンティの「肉」をデリダの「触覚」の議論と交叉させ、ドゥルーズの映画論、ジャンケレヴィッチの「何だか分からないもの」、デュシャンの「皮膜」を取り上げながら、「半透明」の現代的展開が扱われる。

 途中で言及されるルネサンスの議論に関しては、すでに著者に『ルネサンスの美人論』という著書が、画家モランディについても単著があり、また議論の下敷きとして用いられるテヴォー『不実なる鏡』やエスポジトは、著者自身が翻訳紹介に尽力している対象でもある。利用される多くの素材や原典を、著者自身が自家薬籠中のものとしていることになる。これほどの圧倒的な力をもった訳者兼著者も珍しいだろう。自家農園まで経営している高級レストランの趣。

 といった点を十分に評価したうえでのことだが、では本書が面白いかというと、それはまた別問題である。直営の農場から取れる素材は確かなのだが、味付けが意外と淡泊といったところだろうか。『イタリア現代思想への招待』や、いくつかの新書もそうだったが、正直なところ、今回も読後の不全感が拭いきれない。主題の呈示の仕方が抜群で、用いられる素材の選択眼も卓抜なので、その感覚は不思議ではある。考えるに、優れた着眼点で主題を設定し、それに多様な素材を絡めていっても、議論そのものに深まりが見られないというのが、その不全感の原因かもしれない。主題を呈示した段階でもう勝負がついてしまったようなところがあって、その先いくら資料を積み重ねても、単なる列挙にしか感じられないというのが残念な点。要は、思考の躍動感というか、思考による飛躍力が弱く、緊張感や運動感を感じることが少ないということなのだが、これは返す返すも惜しい気がする。議論を動かしているのが、水平的な好奇心や連想であって、「問い」ではないといったところか(こういう論法を正当化するのに、ベンヤミンの「星座」の議論などを持ち出す〔第4章 p. 141〕のは、正直なところあまりに陳腐に思える)。良書『芸術(アルス)と生政治(ビオス)』(平凡社)の著者だからこそ言いたくなる贅沢な注文ではあるのだが。

 「半透明」の主題を展開するのに、アリストテレスにとどまらず、アヴェロエスにまで深く立ち入って、ダンテにまで及ぶというその力量には脱帽するほかはないのだが、例えば、「半透明」を検証する「灰色」「埃」「ヴェール」といった主題が、それぞれにどう関わるのかというような考察には立ち入ることがないため、議論がいきおい平板に見えかねない。これらはまさに現象学で言う「媒体」の議論そのものであり、例えば18世紀人文主義では、フンボルトが言語を「媒体」、あるいは「プリズム」と呼んだような感覚とも繋がり、そこには現象学と解釈学との接合と緊張といった、哲学的に高度な議論を呼び込む余地が存分にあるはずなのだが。そうなると、もはやひとつの現象としての「半透明」だけにこだわる理由もなくなって、中間領域をめぐる哲学的考察が一挙に射程に入ってくることだろう。

 確かにこれだけの素材を博捜した力量は敬服にあまりあるのだが、読後感としては、「勉強になった」という感想を陳べる以外に言葉がない。しかし、読書が「罰せられざる悪徳」だとするなら、それを語るのに、「勉強」という「学校用語」が介入してくるというのは、果たしてどんなものだろう。

(2010. 10. 19) → II-2


G・ディディ=ユベルマン『フラ・アンジェリコ ―― 神秘神学と絵画表現』寺田光徳・平岡洋子訳(平凡社 2001年)

 『残存するイメージ』の著者ディディ=ユベルマンの著書なので、ずっと気になりながらも、なかなかじっくり読む機会がなかったが、今回その独自性をかなり実感することができた。林達夫の『精神史』が、ダ・ヴィンチの『聖母子と聖アンナ』の画面下に描きこまれた「胎盤のようなもの」を手がかりに壮大な精神史を展開したように、本書では、フラ・アンジェリコの『われに触れるなかれ』に描かれた「斑点」や、図像そのものには属していない羽目板に描かれた大理石様の紋様(『影の聖母』)を手がかりにして、図像に関する「否定神学的」思弁を展開している。一見すると単なる偶然や事故(あるいは失敗)に見える斑点や、単なる装飾に見える大理石状の表面はいったいどのような意味をもっているのかという議論が、第一部「神秘の色」を貫いており、そこで示された図像的思弁をもとに、第二部「預言の地」では、「受胎告知」の図像が具体的に論じられている。特に原理的な思考を展開している第一部が注目に値する。

 神的な神秘を描くというのは、図像化しえない事象を図像化するという矛盾した課題に直面することを意味するが、問題の斑点や大理石模様こそ、こうした課題に対するフラ・アンジェリコが出した解法だとするスリリングな読解が提起される。これは、一般の図像学、特にチェーザレ・リーパの『図像学』に集大成されたある種の図案集のような発想とは一線を画している。著者が見ようとしているのは、ある観念の単純な「図解」という一義的な図像学の伝統から大幅に逸脱する別種の図像学(あるいは図像学の彼方)である。その際の理論的な支柱はとりわけ、フラ・アンジェリコが属していたドミニコ会の伝統(とりわけトマス・アクィナス)、そしてトマスも重視したディオニュシオス・アレオパギテスの否定神学に求められる。聖書解釈における「四重の意味」が、事実的な「歴史的意味」から始まって、最終的には霊的秘義に関する「霊的意味」へと向かう脱意味化が行われるように、図像においても、そのような脱図像化が生じるものと理解されるのである。

 とりわけ問題となるのは、「非類似の類似」という「弁証法的」事態である。神を描くために何らかの有限的形象を用いるというのは、そもそも描かれる対象(神)の尊厳に似つかわしくないため、図像は図像自体を相対化し、自分自身を否定せざるをえないのである。「神の形象は形をなさぬ形として、描きえぬものを内に抱懐した形象として与えられるべきである。......この形象は、その語の神学的意味で、まさしく神秘の形象に、語りえないもの、想像不可能なものの形象となる。したがって、この形象は他者性、つまり神の他者性を露わに示すために考え出されたものである」(77頁)

 この観点から、問題の「斑点」が説明される。まさに、描かれる神的な神秘にまったく「似ていない」斑点という形象が、「形象」という現象がもつ限界をおのずから語りだし、それによって、図像として描かれた聖書の一場面など(例えば「われに触れるな」)を、それ自体もともとは図像的な表現が不可能なものであることを示しているというのである。その限り、一見不完全にも思えるこの「斑点」こそ、まさに「形象」の「形象」なる所以を「描き」出しているということになる。そのため、逆説的には、次のように表現される。「神秘というものは、もっぱら形象可能なのだ。......彼〔フラ・アンジェリコ〕にとって形象化するというのは、物語に外観を付与することを意味するのではなく、意味の回折と、そのたえまない移動を絵画に描き出すこと〔斑点のドロッピングなど〕によって神秘を把握することを意味するのだと想定しておかなければならない」(150頁)。

 リーパ以来、パノフスキーにまでいたるイコノロジーの伝統を完全に裏切るような洞察に感服する。しかし正直なところ、上記の議論だけでは、なぜそれが「斑点」でなければならないのか、あるいはフラ・アンジェリコ以外では、そのような非類似的な形象はどのように扱われているのかなど、さまざまな疑問が生じてくるのは事実である。素人目に見ても、論証の背景をさらに拡大しないことには十分に説得力のもつものとは言えないようにも思えるが、展開されている議論そのものがきわめて刺戟的であることに変わりはない。本文中でも、フラ・アンジェリコの絵画における「斑点」が、20世紀のポロックの「ドリッピング」(ドロップ&スプラッシュ)と重ね合わせられているが、そうなると非具象的・抽象絵画一般の形象性という問題にも拡がっていきそうである。

 実際に、本論中にも、そこからさらに議論が発展しそうな論点が多くちりばめられている。空間といったものの理解の仕方を「記憶術」と接合させたり、あるいはマリアという受胎の「場」の考えと照らし合わせる議論なども、いろいろと展開の余地があるだろうし、大理石の問題を「石」一般の象徴性(キリストの暗示)へと拡げるという論点なども、相当に喚起力のあるものだろう。「遠近法」によって形象が可視的な「前景」へと限定される運動と交叉するように、中世的な読まれる絵画が衰退していくといった経緯も、より微妙な機微とともに考え直すことができそうである。「見えないもの」を「見ていた」時代から、「見えるもの」を極力「正確に」見ようとする時代への変更である。

 そして何よりも、ここでの「形象」(figura)の神学的・否定神学的理解は、ちょうどアウエルバハが文学的伝統に関して展開したフィグーラ論ときわめて親和性の高いものであることに気づかされる。「予徴的」形象として、時間性に関するキリスト教的な逆説的理解が取り込まれるあたりも、聖書解釈学における予型的解釈との並行関係を伺わせる。そして何よりも、この種の議論と現象学の分野で近接しているのが、ジャン=リュック・マリオンの議論だろう。実は、『存在なき神』の邦訳(法政大学出版局 2010年)がちょうど公刊されたところなので、この『フラ・アンジェリコ』を思い出して、引っ張り出してきたという次第。

 本書を手に取ることをこれまで少し躊躇っていたのは、以前あるサイトで、この書物に対する酷評に近い評価を目にしたせいもあった。図版がみにくい、あるいは表現がフランス的でわかりにくいといった評価だったように思うが、実際に読んでみると、そんなことはまったくなかった。むしろ翻訳はかなり考えられており、日本語としても十分に成立していると思うし、参照図版を探し当てるのも、一般に註を参照しながら書物を読むことに慣れている者なら、さほど苦労することはないだろう(ただし、現在は入手困難で、かなり高値がついてしまっている ―― ネットによる書籍流通の「罪」の部分である)

(2010. 8. 23) → II-1


O・パス『泥の子供たち ―― ロマン主義からアヴァンギャルドへ』竹村文彦訳(水声社 1994年)

 ラテンアメリカの詩人オクタビオ・パスによるロマン主義・近代詩に関する評論集。評論といっても、思想的・哲学的にもかなり充実した内容をもっている。標題の「泥の子供たち」は、ネルヴァル、およびフェルナンド・ペソアの詩に由来し、泥から造られた被造物であるわれわれ人間を指しながら、その創造主が不在であること ―― つまりは「神の死」 ―― を暗示する。近代のロマン主義以降の文学がそのような射程で語られるところにも、相当に思想史的にも大きな見取図が背景にあることが予想される。特に、「I 断絶の伝統」「IV アナロジーとイロニー」、そして「VI アヴァンギャルドの黄昏」の「3 収斂点」が、中心的な論点を扱っている。

 近代文学の流れを、「<伝統の破壊>の伝統」という、自己批判的・自己否定的な視点を宿した運動と捉え、その補助線として、「アナロジー」と「イロニー」という対立を組み入れて、全体の論が組み立てられる。破壊的であると同時に、その破壊を糧にして前進するイロニーが近代の精神を体現するものだとしたら、全体を調和の元に捉え、有機的全体を復権しようとするアナロジーは、万物照応的な世界観を基盤としている。そして近代詩は、イロニーが破壊する全体性をアナロジーによって再建しようとする緊張に満ちた運動と理解されるのである。ボードレールの「万物照応」やマラルメの「書物」のイメージなどがその典型として挙げられるが、この場合のアナロジーも、けっして古代・中世的な「存在の連鎖」のようなものではなく、むしろアナロジーが依拠する参照項そのものが、常に他の項目を参照するように促す無限の開放性をもっている。「各ページが各ページの翻訳であり、変形であって、この連鎖はどこまでも続く。世界とは隠喩の隠喩である。世界はその現実性を失い、言語の技巧と化す。アナロジーの中心には空洞がある。この空洞から、世界の現実性と言語の意味とが同時に転落し、消えうせる」(p. 116)。

 アナロジー自体がイロニーに転じてしまうようなこの反転を、パスは歴史性と非歴史性といった時間論的・解釈学的な概念対とも重ね合わせて、詩における読解の一回性と、その解釈の歴史的な変動可能性といった思考に繋いでいく。「構造は非歴史的である。テクストは歴史であり、日付をもつ。構造からテクストへ、テクストから読みへ、変化と同一性の弁証法は進展する。構造はテクストとの関係において不変要素であるが、読み問いの関係ではテクストが普遍要素である。テクストは常に同一である ―― が、読まれるたびに別のものになる。......テクストと読みは不可分で、これらの中で歴史性と非歴史性、変化と同一性は消失することなく合体する。超克ではなく収斂。それは反復不能でありながら反復される時間、過ぎ行くことなく過ぎ行く時間、自分自身にたち返る時間」(pp. 253-254)。現代哲学ふうの読解論と重なりそうな刺戟的な論考だった。

 本書の考察のスタイルが気に入って、文体的にも惹かれるものがあったので、彼の最初の評論『弓と竪琴』をネットで捜し、古書価で値上がりしているものを泣く泣く入手。ちくま学芸文庫で復刊されていたことを知ったが、時すでに遅し。この文庫版自体がかなり値上がりしている。またしても、ちくま学芸文庫は要注意との教訓を得る。

(2010. 7. 1) → I-3


M. Battistini, Astrology, Magic, and Alchemy in Art, The J. Paul Getty Museum [Los Angels], 2007
(バッティスティーニ『芸術における天文学・魔術・錬金術』)

 すでに『絵画におけるシンボルとアレゴリー』などを取り上げたバッティスティーニのThe Guide to Imageryシリーズの一冊。標題通り、天文学・魔術・錬金術に関わる図版を、主に見開きで完結するかたちで、簡単な解説文を付したうえで、全頁カラーで紹介している。手頃なサイズで愉しめる。もちろんそれだけ簡単な紹介なので、内容的には物足りないが、例によって図版に引きだし線をつけて、図の各要素を解説していくやり方は、気楽に愉しめるのが利点だろう。「天文学」の部門などは、星座や惑星ごとの見出しなので、ある程度整然とした体裁だが、魔術・錬金術となると、その主題と図版の選定も若干疑問のあるものも多い。しかし、「記憶術」などという主題を見開きひとつですませるのが、所詮は無理な注文なので、そこはご愛嬌というところだろうか。

 図版に関しても、歴史的文脈はほとんど無視して、関連の図像が引用されるので、かえってこれが新鮮な印象を与える。中世の図像の横に、シャガールが掲げられていたりする。形象の連想というのは、論理的・歴史的な繋がりとは別の種類のものなので、逆に大胆な組み合わせをしてくれたほうが、読者の連想が拡がる。「化学的婚姻」の項目では、近世初頭の錬金術図像の隣に、デュシャンの「大ガラス ―― 彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁」が並ぶのはなかなか痛快。

 デュシャンでついでに言うと、「四元素」の項目には、「瀑布と洋燈が与えられたとしても」(「流れる水、照明用ランプが与えられたとせよ」)が挙がっている。首のない横たわる裸婦が「大地」、ランプが「錬金術的焔」云々......という解説が付されている。そう言われてみれば、たしかにここには、「四元素」の要素が揃っている。デュシャン本人がどこまで自覚的だったかは分からないが、形象的想像力というものが、作者本人の意図と関わりなく、知らず知らずの内に作品に入り込んでくるということを、あらためて感じさせられる。絵画版の「間テクスト性」とでも言うべきところだろう。

(2010. 5. 27) → III-1


I. F. Walther, N. Wofl (eds), Masterpieces of Illumination. The world's most beautiful illuminated manuscripts from 400 to 1600, Taschen [Köln], 2005
(『装飾写本の傑作群 ―― 世界で最も美しい装飾写本』)

 出版社Taschenが創立25周年を記念して企画した大型本のひとつ。あいかわらず、ヨーロッパの本造りの実力を見せつけてくれる。古代末期から中世末期までの代表的な装飾写本を、一点数頁ほどのコンパクトなかたちで紹介しているが、判型も大きいので、撮られている写真はかなり強い印象を与える。写真そのものの状態も良く、印刷の発色も良いので、羊皮紙やヴェラムなどの素材感が分かるくらいの鮮明さ。全体が500頁ほどあって、紹介されている写本の総数も150点程度。『ケルズの書』や『リンディスファーン聖書』などの古典的なものから始まって、『ベリー候の時祷書』などの有名どころは漏らさず収録し、その他、イスラーム圏の写本なども紹介されている。

 見開き頁ごとに、ノンブルの脇にすべて違ったヴィニエット(アクセントとしての小挿絵)が付されているなど、遊び心も一杯。唯一の難点は、アート紙でこれだけのサイズと厚さなので、とにかく重いこと。しかし、これを日本円にして数千円で提供してくれるというのは、とにかく凄い。日本だったら、岩波書店や中央公論美術社辺りが出して、2, 3万円というところだろう。

 同じくタッシェンの25周年企画で同種のものとして、The most beautiful bibles(『最も美しい聖書たち』)も、聖書に限定して装飾写本を集めており、これも見ごたえがある。ちなみに、これらは出版されてすでに5年経っているので、だいぶ入手が難しくなりはじめているようだ。アマゾンなどでも品切れの模様で、私は「芸術広場」というところで手に入れた(3,900円也)。ご参考までに。

(2010. 5. 22) → III-1


J. Godwin, Athanasius Kircher's Theatre of the World. The Life and Work of the Last Man to Serarch for Universal Knowledge, Inner Traditions [Rochester, Vermont], 2009
(ゴドウィン『アタナシウス・キルヒャーの世界劇場 ―― 普遍的知識を探求した最後の者の生涯と業績』)

 これはすごい。1979年にA Renaissance Man and the Quest for Last Knowledge(『ルネサンス的人間 ―― 究極的知識の探求』:邦訳『キルヒャーの世界図鑑 ― よみがえる普遍の夢』工作舎)と題して、多くの図版とともにキルヒャーの著作を論じた著者ゴドウィンが、30年を経て、キルヒャーについて再挑戦をしてくれた。今回のものは、まさに決定版の趣をもつ。正方形に近い変形の4折の大判で、410点もの図版を収めて、そのさまはまさに壮観である。

 「寓意扉絵」、「古代」「自然界」「音楽」「機械」といったような章立てで、これだけを見ても、本書がキルヒャーの著作に含まれた大量の図版を展示することを目的にしていることが分かる。本書には、印刷本として公刊された図版以外に、キルヒャーの手稿までが何点か写真版として挿入されている。キルヒャー自身が、図版の簡単なアイデアを下書きして、さらにプロの画家がそれを元に腹案を提案して作業を進めている様子を垣間見ることができる。このキルヒャーの手稿というのは初めて見た。怪しげなヒエログリフといい、大地の壮大な記述や怪物の描写といい、好きな人にはたまらないだろう。

 工作舎の『キルヒャーの世界図鑑』は、企画としてはとても良かったと思うが、いかんせん印刷が悪く、図版の大半が黒く潰れすぎて魅力が半減してしまったので、世に奇特な訳者と出版社があって、今回のゴドウィンを翻訳公刊するようなことがあれば、ぜひとも図版を奇麗に仕上げて欲しいと思う。原著は十分にそれに堪えうる精度をもっている。ちなみに今回のこの書物は、Thames & Hudsonからも出ていて(むしろ、こちらが最初なのかも知れない)、カバー・デザインが異なっているので、もしや別の版かと思って結局2冊とも入手してしまった。手に入れてみたら、内容そのものは完全に同じだったので、返品も可能なのだろうが、本書の場合これも一興かと思って、二冊とも手元に残しておくことにした。久し振りの快挙。

(2010. 5. 17) → III-2


新田義弘『思惟の道としての現象学 ―― 超越論的媒体性と哲学の新たな方向』(以文社 2009年)

 2001年に『現代思想』の連載をまとめた『生命と世界』(青土社)が出版されたが、本書はその後に書かれた論考をまとめて一書としたもの。けっして大部の書物ではなく、体裁からすると簡単に読めてしまいそうだが、その内容は実に高密度で、読者に相当の思考力を要求する。最近は哲学書といっても、事実を羅列するばかりで思考力の乏しい大部の書物が多いなか(その多くは「学位論文」と称するものだが)、本書は著者ならではの、純度の高い思考を展開していて、その集中力に圧倒される。「論文」というスタイルがもつべき特徴を存分に発揮して、瑣末な事実を簡単にスキップして、論じるべき問題にしっかりと照準を定めているのが見事の一言に尽きる。フッサール、ハイデガー、フィンク、ラントグレーベと、現象学のなかでも思考力の水準の高い嶺を追い、さらには、ヨーロッパ的現象学の最深の部分と、西田や井筒に代表される思考との接点を探る論考も含まれる。その場合も、単なる「比較思想」などには終わっていないのはもちろんである。

 本書の叙述は、高度に抽象化され、可能な限り凝縮されたかたちで提示されている。例えば、西田の「自覚」の思想を、現象学の純化の運動として、「なり切ること」と表現したうえで、その特徴が以下のように記される。「この<なり切る>という思惟の次元は、二重の自己否定が生じるときに開かれてくる。一つは、哲学の問いとしての思惟(ここでは現象学の方法的思惟といっておくが)の自己否定(方法的反省的思惟の自己挫折)と、もう一つは、それによって切り開かれる事象そのもののほうの自己否定、すなわち事象の自己形成のはたらきそのものに起きる自己抑制運動とが、同時に起きているのである」(p. 190)。この一文を正確に理解するだけでも、大変な思考を要求することだろう。

 高齢になってもなおこれほど高密度の思考を展開しつづている著者は、最近ではほとんど見当たらないような気がする。かつて、丸山圭三郎氏などは、ソシュールを文献的にもきわめて緻密に論じ、その成果をもとに特有の思想を展開していったが、それでも彼自身の独自の思考を展開する段になると、その表現がかなり緩くなって、形態もエッセー集のようになってしまった。日本の研究者が多くの場合、そうした方向を辿りがちであるのを思うと、本書のような容赦のない高度な議論を展開し続けいている著者が、ますます稀有な存在に思えてくる。 →II-3

(2010. 5. 16)


M・G・ジョーンズ『フランシス・イエイツとヘルメス的伝統』 正岡和恵・二宮隆洋訳(作品社 2010年)

 ルネサンス研究のフランシス・イエイツに関する初の本格的伝記。イエイツ本人の生涯は、「波乱に富む」という表現の対極にあるようなもので、派手な恋愛や人間的な確執があったりするわけではないので、伝記としては実に淡々としている。叙述そのものの性格もあるだろうが、イエイツという個人の伝記というよりは、二〇世紀の人文学の知的形成史のような趣をもち、それはイエイツ本人にも相応しいもののような気がする。ヴァールブルク〔ウォーバーク〕研究所、アナール学派などに関係する嬉しい人名が目白押しで、その交流を見ているだけでも、20世紀の最良の文化的景観という思いが湧いてくる。1933年にウォーバーク研究所がロンドンに移ってきたのとほぼ時を同じくして、科学史のチャールズ・シンガーの妻ドロシー・シンガーに紹介されて、研究所との関係を結ぶが、イエイツの仕事の環境を説明するものとしては、それで一切が尽くされていると言ってもよい。必要とする資料は、ウォーバーク研究所と大英図書館が提供していたので、書狼となって稀覯書を買い漁るというような常軌を逸したエピソードも皆無である。その点が物足りないといえばそうなのだが、こうした存在を可能にする環境というのも羨ましいものではある。研究所の仕事としては、当初紀要の編集のようなことをしていたようだが、その頃からすでに自分自身の研究課題をもち、自分のための時間を確保することを最優先として、その姿勢は生涯変わらなかったようだ。

 ブルーノへの関心はきわめて早く、30代くらいから始まっているようだ。ラファエル前派やラスキンなどと同じく、ルネサンスの一面的な合理主義的な理解に反撥して、中世に共鳴していった感覚がその基盤にあるらしい。ヘルメス主義への関心を深めたのはむしろずっと後年になってからのことだというのは少々意外だった。しかし、1960年代に60歳台に突入してからは、ヘルメス学 を支柱に据えて、凄まじいスピードで、有名な『ブルーノとヘルメス的伝統』を始めとする画期的著作を仕上げていった。『ブルーノとヘルメス的伝統』は執筆に一年かかっていないし、『記憶術』なども、一章を数日で書きあげるというペースで進んでいったようだ。

 ヘルメス主義や魔術的伝統という主題を扱うとなると、ある種の秘教的雰囲気や、時とすると、正統派に対するルサンチマンや、その裏返しの偏狭なエリート意識がつきまとう場合があるが、イエイツにはそうした屈折した部分がほとんど見当たらないのも驚かされる。学問の王道を進み、学界の頂点に君臨するというようなスタイルからはほど遠く、むしろマイノリティやアウトサイダーの意識を持ち続けながらも、淡々と自分のやりたいことを実現させていくというスタイルは、最も良質の「アマチュア精神」を感じさせる。ウォーバーク研究所そのものが、亡命知識人の集団だったわけで、その点でも、学界中央と結び付く権威主義的な人間関係とは無縁だったのだろう。本書の末尾を飾るイエイツ評、「最良の意味におけるアマチュア ―― とはいえ、情熱と厳密な学問的基準を結び合わせたアマチュア」(p. 333)というのは、まったくその通りだと思う。

 本書は2008年に原著が出ているが、間髪を入れず、2010年に翻訳書 ―― しかもきわめて質の高い翻訳 ―― が公刊されたというのも喜ばしい。これにはさらに一点、触れておかなければいけないことがある。翻訳者のひとり、二宮隆洋氏のことである。かつて平凡社から、まさしくこのイエイツ伝に挙げられる人文学の精鋭たちを、編集者として世に送り出されていたそのひとである。ヴァールブルク叢書やクリテリオン叢書、エラノス叢書といったそれらの驚異の人文書群は、現在では親本そのものはかなり入手困難になっているが(部分的には、ちくま学芸文庫などで文庫化されている)、その一連の出版の締め括りにこのイエイツ伝を、みずから訳者のひとりとなって翻訳されたというのも、出版人として姿勢の一貫した、見事な仕事振りだと思う。二宮氏の手になる文献表が付されているが、林達夫、山口昌男から始まる文献一覧とそのコメントは、この手の書物に関心をもつ人ならかならず共感するようなラインナップである。 (ルネサンス的魔術・科学の伝統を扱う論集『ミクロコスモス』 (月曜社 2010年)も公刊されて(後述の予定)、イエイツの主著『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』も、いよいよ工作舎から近刊と聴く。) → IV-2

(2010. 5. 12)


今福龍太『身体としての書物』(東京外語大学出版会 2009年)

 東京外国語大学出版会で始めた「ピエリア・ブックス」なる叢書の一冊。大学でのゼミナールを元に一書にまとめたものなので、「序章」を除いて本文は講義文体。「序章」はひどくテンションの高い文章になっていて期待感が高まる。マラルメの「この世界において、すべては、一巻の書物に帰着するために存在する」という有名な宣言から始まり、書物化する世界の理念を手がかりに、やがてはそれを反転させ、「書物において、すべては、世界へと生成するために存在する」というテーゼへと導こうとする全体の方向が鮮やかに素描される。

 本書は標題にもあるように、まずは「身体」=物質としての書物の側面を論じ、ボルヘス、ジャベス、ベンヤミン、グリッサンといった、現代において「書物」という現象を考えようと思うなら、かならずや展望台として利用されるテクストを丁寧に読み解いていく。折り丁や、ページネーションやパリンプセストといった、物質としての書物にしか存在しないさまざまな技術的側面も、書物という現象を考える有効な手がかりとして利用され、書物好きにとってはなかなか愉しめる。比喩の使いかたも抜群で、身体Bodyという言葉を、ワインのブーケbouquet(薫り)、テイストtaste(味)に対して、ボディbody(こく)と類比的に捉えるなど、イメージが拡がる比喩を多様に繰り出してくるのが、この著者の妙技のひとつだろう。最終章で、グリッサンを論じながら、川にまつわる地理的用語と、印刷技術関連の言葉が重なるというような指摘も面白い。

 著者自身による校閲の過程や、ベンヤミンの手書きノートの検討など、通り一遍の書物論では扱われない論点にも踏み込んで、開かれた意味空間としての書物の姿を浮彫りにしていく。そしてもちろん、この議論の背景には、現代のインターネットのテクストの問題が常に影を落としている。最終章では、グリッサンの「モンド」(世界)論を参照しながら、その辺りの論点をめぐって、方向を示そうとしている。「書物がその両岸のあいだにくりひろげるものは恒常的なものの明証性である。そういうものがなくなってしまえば、われわれは恒常性を捕捉することを学んだり、あるいは少なくとも文字性の不断の運動のなかに、その味わいを捕捉することを学ばなければならなくなるのではないか。私は次のように言いたい。インターネットは世界を展開し、世界を繁茂するがままにわれわれに提供するが、本は世界の不変数を照射し、解放すると」(グリッサン)。ここに問題を整理する鍵を見ようとするのは分かるのだが、最後は議論が著者独特のレトリックに揮発して、十分に詰められているとは思えない。しかし、そこまでの道筋をこれだけ愉しい読みものとして提供してくれているのはありがたい。

(2010. 3. 30) → Books


M. Battistini, Symbols and Allegories in Art, The J. Paul Getty Museum [Los Angels], 2005
(バッティスティーニ『絵画におけるシンボルとアレゴリー』)

 ニコラ『哲学図像集』と同様に、イタリア語原著からの翻訳だが、こちらは英訳。Guide to Imagery(図像理解への招待)というシリーズになっている。要するに、イタリアの出版社Mandadori ElectaからDizionari dell'Arte(美術事典)というシリーズで出ているものの英訳がこのGuide to Imagery、ドイツ語訳がParthas VerlagのBildatlasということのようだ。この英語版は、日本風に言えばほぼ四六版に相当して、ドイツ語のBildatlasより一回り小さい。図像などもその分は小さくなっているが、印刷の発色もよいのであまり気にならない。むしろあちこちを眺めるためには、便利なサイズとも言える。

 本書も『哲学図像集』と類似の編集方針で、まず大きく「時間」「人間」「空間」「寓意」という章を立て、その内部を見開き2頁ごとの小項目で配列していく小事典風の造り。例えば、「時間」の章では、「時間創造者としてのキリスト」「四季」「曙光」など、「空間」の章では、「天国」「都市」「四大」「旅」など、「寓意」の章では、抽象觀念、例えば「愛」「悪徳」「気質」など。掲載された図像に、引きだし線が付されて、図像のなかのどのパーツが何を意味するかという解説を行っている。

 個々の主題の設定はなかなか面白く、これと『哲学図像集』を組み合わせるような発想をすると、かなり創造的な展開が期待できそう。本書では、採られている図版はほぼ近代以降(15世紀以降)になっていて、その点で少し拡がりが抑えられているように思える。リーパもごくわずかに紹介されている程度。すでにリーパの『図像学』、特にヘルテル版などが、本書のような事典的発想で作られているので、考えようによっては、リーパの『図像学』の翻訳をベースに据えて、そこに古代や近代の図像を関連されて膨らませていくという編集方針が、この種の書物を作るためにはかなり有効なのではないだろうか。かつてリーパ『図像学』そのものを解説つきで翻訳した水之江有一『図像事典』も入手困難になっているので、そろそろそのような企画があってもよいように思うのだが。

(2010. 3. 18) → III-1


U. Nicola, Bildatlas Philosophie. Die abendländische Ideengeschichte in Bildern, Parthas Verlag GmbH [Berlin], 2007
(ニコラ『哲学図像集 ―― 図像によるヨーロッパ思想史』)

 図像による哲学史の試み。見開きで一項目ずつで、全体が570頁ほどなので、200程度の項目が収められている。まず歴史的順序で時代名称を大枠として、「ギリシア」「前ソクラテス期」から「中世」「ルネサンス」、さらに「ヘーゲル主義」などの章をもうけて、その内部を「神話」「宇宙論」「ミメーシス」「創造」「否定神学」「弁証法」「狂気」など、小項目ごとを見開き2頁で解説していく。左頁にそれぞれの概念についての簡単な概説、右頁に図像を配し、その出典や意味などを記載している。要するに、図像による哲学事典という趣。項目数としてはなかなかのものだし、小辞典としては納得のいく選択となっている。

 やはりこういうものが出てきたかという印象だが、これは原著がイタリア語で1999年に出ている。L. Braun, Bilder der Philosophie(ブラウン『哲学の図像』)もフランス語からの翻訳であるし、どうも図像に関するこの種の企画は、まだドイツ語オリジナルで目立ったものがないようだ。とはいえ、この『哲学図像集』も『哲学の図像』と同様に、図像の選択であまり目を惹くものはない。とにかく項目ごとに何らかの図像を入れようという努力は買うが、なかにはかなり無理のあるものもあり、どうにもならないと自作の図解(マンガ)でお茶を濁しているようなところもある。事典としての項目を先に立てておいて、そのあとに図像を捜して当てはめるという具合に作られたのだろうと思う。その点では、項目は事典としては正当でも、図像と觀念の相互交流に焦点を当てた場合、あまりに旧態然としているということになるだろう。「付された図像は、長期にわたり慎重に捜した成果であり、テクストを補完するものである。つまりこれらの図像はたんに副次的な図解ではなく、主要概念を理解するために中心的な役割を果たす」と述べられているが、やはりこの形態では、図像は「図解」といった位置にとどまるのではないだろうか。概念と図像を相互的に関わらせるためには、項目の立て方が重要な意味をもつと思う。そうした項目のメソッドをきちんと考えたときに、はじめてこの種の図像集は新しい意味をもつだろう。

 このBildatlas(図像集)というのは、シリーズになっていて、「他者イメージ」や「自然とシンボル」など、20冊近く公刊されているようなので、順を追って見ていきたい。

(2010. 3. 16)


L. Braun, Bilder der Philosophie, hg. von R. Konersmann, aus dem französischen von C. Brede-Konersmann, Wissenschaftliche Buchgesellschaft [Darmstadt], 2009
(ブラウン『哲学の図像』)

 「哲学」そのものについての図像・寓意画を用いて、図像によって哲学を叙述するといった「形象学」的な試み。フランス語原著Iconographie et Philosophie, 2 tomes, 1994/1995から縮約・編集した著作で、編者は2007年に『哲学メタファー事典』を編集・公刊したコナースマン(訳者は夫人だろうか)。図像学のなかでも、「哲学」を表したものに絞り込んで、そのいくつかのモチーフごとに簡単な解説をつけている。要するに、「哲学とは何か」という哲学入門的な問いに図像で応えるという試み。

 試みとしては悪くないが、掘り下げが足りないように思えるのは、本書が原著の抄訳だからだろうか(原著がいま入手困難で、いまのところ確認できない)。まずは「哲学者の像」という括りで、有名な哲学者の肖像(彫像・写真)を列挙していて、この部分には特に新味はない。それに続いて、具体的に「哲学」を擬人像などで寓意表現した図像が取り上げられるが、12世紀のランツベルクのヘラルディス『逸楽の園』の扉絵、16世紀デューラーの「哲学」など、それらはおおむね予想がつく範囲に収まっている。目立ってセンスのよい変わった図像が盛り込まれているわけではない。言及されるモチーフの点でも、哲学の段階性を表す「梯子」や「塔」など、やはり思い付くのはその辺りだろうという線。対象著作にも、マルティアヌス・カペラ『文献学とメルクリウスの結婚』やプルデンティウス『魂の闘い』、ボエティウス『哲学の慰め』といった常連が並ぶ。最初の試みとしては悪くないと思うが、凡庸な感も否めない。イコノロジーの最初の組織的定礎者であるリパなどに言及がないというのも、どんなものかと思う。要するに「図像の哲学」そのものを図像によって描き出すというメタレベルの発想は欠如しているように思える。その点は、むしろコナースマンの序文が補っている。「哲学的図像学は、知の歴史、および歴史的認識論といった領域横断的な分野に対して、独自の貢献を果たす」(S. 11)という方向をより拡充してもらえたらと思う。いずれ原著も確認してみたい。

(2010. 3. 14) → III-1


巌谷國士『シュルレアリスムとは何か』(ちくま学芸文庫 2002年)

 親本が1996年に出ているものの文庫化。「シュルレアリスムとは何か」「メルヘンとは何か」「ユートピアとは何か」という三本の講演から成り立っている。講演の口述記録ということもあって、きわめて読みやすいのだが、最初の「シュルレアリスムとは何か」は、かなり本質的な問題を伝えているように思える。シュルレアリスムの「シュル」は、けっして現実を「超える」ことを意味しているわけではなく、空想や幻想とは無縁である。むしろ「シュルレアリスム」が目指すのは、日常的現実によって覆い隠されているより強い現実を暴きたてることであって、その点では、現実の強度を上げることこそがシュルレアリムの核心をなしているという解説。「人間におとずれる客観的なものたち、すなわちオブジェたちが生起し表現されるのがシュルレアリスムですから。いいかえれば、主観にもとづいて幻想を展開するのではなく、むしろ、客観が人間におとずれる瞬間をとらえるのが、シュルレアリスムの文学や芸術のありかただということになるでしょう」(p. 54)。「シュル」であることは、ありえない非現実的な事柄を空想することではなく、むしろ現実の中に存在しながら隠れている次元を顕現させることである。このような理解は、例えばフェルマンが『現象学と表現主義』などで語った「脱現実的現実化」などにきわめて近い。その点で、20世紀芸術にある程度共通の感性なのかもしれない。ただし強度が高まった現実である「超現実」をそれとして発見するためには、ある種の技法が必要である。その技法としての「自動書記」の技法が紹介されるが、これも書く速度を上げることによって、主語や動詞が徐々に消えてゆき、それによって客観的な「もの」の世界が立ち現れてくるという、これ自体、きわめて現象学的な記述になっている。

 類書として、巌谷國士が訳者となっているワルドベルグ『シュルレアリスム』(河出文庫 2005年第2刷)も、翻訳が実によい。翻訳としての違和感を感じさせることなく、それでいて尖鋭な日本語になっているのに感心する。ブルトンの『シュルレアリスム宣言』『シュルレアリスムと絵画』などの抄訳や、詩集、絵画図版など、コンパクトな案内になっていて愉しめる。考えてみると、河出文庫にはすでに、巌谷國士による翻訳で、『百頭女』を始めとするエルンストのコラージュロマン、そして何よりも実に愉快なドーマル『類推の山』が収められ、文庫でのシュルレアリスム概観が可能になっている。

(2010. 3. 10) → III-3


林浩平『折口信夫 ―― 霊性の思索者』(平凡社新書 2009年)

 最近、新書や選書でも折口信夫関係のものが目につくが、本書は単なる紹介にとどまらず、客観的な記述を踏まえながら、著者自身の明確な折口像を打ち出そうとしている。副題にある「霊性」という視点にもそれが明確に窺える。上野誠『魂の古代学 ―― 問いつづける折口信夫』(新潮選書 2008年)が、折口には常に違和感を抱いてきたと言いながら、著者なりの鮮明な折口像を示しているとは言いがたいのに比べて、本書は方向性にはきわめて鮮明なものがある。

 ここ数年は、富岡多惠子や安藤礼二などによって、折口の「同性愛」に注目が集まっているようだが、あまり関心をもてない主題ではある。本書でも第一章でいささかスキャンダラスな主題としてそれに言及しているが、それはほどほどにして、古代研究における超越的な次元への示唆、およびその観点から考察された文学発生論などへと論を進めていく。アナロジーの発見としての「類化性能」と、分析的知性の働きである「別化性能」という折口の区分に拠りながら、後者の分析的知性に柳田国男と丸山真男を配し、前者のアナロジーと共感の方法に折口学の真髄を見るという観点は、単純ではあるが明快。中沢新一『古代から来た未来人 折口信夫』(ちくまプリマー新書 2008年)にも見える論点に重なっている。

 本書の場合、さらにそこから、短歌をそれ自体は内容をもたず、むしろ生命の力を宿らせる一種の依り代や枠組みとみなす「短歌無内容説」に触れ、そこから命の容れ物としての「たま」「魂」へと言及し、中心となる「プネウマ論」「霊性論」に導いていく。第三章「プネウマとともに」では、坂部恵などの問題提起に拠りながら、理性と霊性、知性と信仰というような、ヨーロッパ中世に繋がる議論を追求している。アガンベンや、バタイユやクロソウスキーなどを、ある意味気楽に使いながら、問題のイメージを拡げていくのは、新書としてはありうる路線だと思う。もちろん、それだけの紹介だと、単なる思い付きの域を出ないが、第四章「浄土への欲望と京極派和歌」で、折口が京極派の和歌を高く評価していることを指摘しながら、京極派の背景にある浄土教へと論を拡げていくことで、その連想を具体化していく。京極派は、純然たる風景をありのままに歌ったように見えながら、その背景には西方浄土への欣求が秘められているという主張は(国文学としてどう評価されるのかは分からないが)面白く読める。そして浄土教思想と、『死者の書』の解説として収録された「山越の阿弥陀像」の議論を経て、宗教性そのものの復権としての神道論に説き及んで巻を終える。軽い読みものではあるが、印象に残る論点を提起している点が好ましい。

(10. 3. 5.)

→ IV-4


O. Boulnois (éd.), Généalogies du sujet. De saint Anselme à Malebranche, Vrin [Paris], 2007
(ブールノア編『主体の系譜学 ―― アンセルムスからマールブランシュへ』)

 いわゆるポストモダンの哲学によって、「主体の解体」や「人間の消滅」が散々に論じ尽くされ、そろそろ議論も一巡したのか、このところフランス語圏でも、ふたたび「主体」を標題に冠した著作・論文集が目についてきた。アラン・ド・リベラの『主体の考古学』なども二巻にわたって大きな著作である(Alain de Libera, Archéologie du sujet, I: Naissance du sujet, II: La quête de l'identité, Paris 2007-2008)。本書のブールノアのものは論文集。副題にあるように、初期スコラ学のアンセルムスから近代初頭のマールブランシュまでを扱い、「主体」思想の系譜を追う。特に、シュムッツの論考「形而上学的第一原理としての自我存在」(J. Schmutz, L'existence de l'ego comme premier principe métaphysique avant Descartes)などは、デカルト直前のスペインのイエズス会思想家などを扱っていて、資料的にも新しいようだ。数頁の引用集が付されている。そこで取り上げられるウルタード・デ・メンドーサの「私にとって私が存在することは、形而上学的に明証的である」などという文章は、ほとんどデカルトそのままである。ただしここで「形而上学的」と言われている洞察は、デカルトになるとむしろ認識論的・学問的確実性へと還元されていくので、その変化の経緯も面白いところだと思う。いずれにしても、デカルト自身が学んだラフレーシュ学院もイエズス会の経営する学院であったわけで、この辺にもデカルトと中世末期を繋ぐ一筋の道が通っているようだ。

(2010. 3.2) → IV-3


清水高志『来るべき思想史 ―― 情報/モナド/人文知』(冬弓舎 2009年)

 『セール、創造のモナド』の著者の第二作。前著がきわめて優れた書物だったため、今回も期待をもって手にした。相変わらず議論の水準はきわめて高い。前回と同様に、M・セールと西田に依拠しているが、今回はそこにセールの弟子であるピエール・レヴィの議論などを大きく絡ませてくる。現代の情報ネットワークの環境を論じる哲学を構築しようという強い意欲が窺える。そのためのキーワードが、virtualité。「ヴァーチャル性」と「潜勢力」の二義性をあえて保ったまま、ドゥルーズ的な枠組みのなかでこの語を使い切っていく。つまりここでの議論は、「現実」対「可能」という対比ではなく、「アクチュアル性」対「ヴァーチャル性」という対比で思考を推し進め、現実に対する虚構性(ヴァーチャル性)、あるいは現実を模倣する仮想現実(ヴァーチャル・リアリティ)というような思考パターンを振り捨てて、ヴァーチャルなもの独自の構造性を浮彫りにしようとする狙いをもっている。そこでは、対象と主体が固定した二項として対立するのではなく、常に役割を交替する流動的・変成的なものと捉えられる。サッカーにおけるボールの役割などという例はなかなか面白いイメージだと思う。ゲームの中でのボールは、もちろん現実にはプレーヤーが動かすものではあるが、ゲームの中では、むしろボールが準=主体となって、プレーヤーを動かしているとも言えるし、そうした準=主体と準=客体の交互関係が円滑に流れてこそ、ゲームが成立していくというわけだ。このような水平的で、定点をもたないネットワーク状の運動を視野に収め、さらにその運動を運ぶ役割を果たすものとして、「想像的なもの」の重要性が強調されていく。

→ II-3  想像力と人文知の関わりについて、以下のように語られる。「詩的想像力の産物は、そこで語られる内容が一見不合理なものであっても、こうした創発的な運動や、水平性・相互性・匿名性を経由しての包摂性のあり方について、多くを教えてくれる。......かつての人文学がもっていたのはそのような信念であり、とりわけ日本において発達した国学や古学、またその系譜を引き、小林秀雄が体現していた文芸批評の知性は、そうした意味において、芸術や神話的な想像力からこそ、人間の倫理は導き出されるという立場に立って、いわゆる近代人の主知主義を徹底的に批判したのであった」(p. 222)。この流れで、小林秀雄の宣長論やヴァレリーなどが言及される。という具合に、かなり欲張りな著作であって、実はそれが少々禍して、今回のものは、前著に比べると議論の一貫性が弱く、流れが見えにくいところがある。論じられる主題についてきわめて抽象度の高い総括がなされており、それはそれで一種の魅力なのだが、今回の場合はそれが若干足を引っ張って、上記の引用のように、やや我田引水のように聴こえてしまうところがある。要はあまりに説明を端折っているかたちになっているのだ。その点で、実はよく理解できていない部分も多いのだが、議論の狙っている次元は高いので、機会をみてもう一度読んでみようという気にはなる。アイデアに富み、再読に値する書物だと思う。

 ただ最後に一点、書物としての技術的な問題だが、これだけの水準の書物にしては、欧文などの処理があまりに杜撰なのが残念。註の欧文の大文字・小文字表記がほとんど間違っている(人名まで、小文字の場合がある)。誤植の限度を超えていて(sinbildungskraftとは一体何? [p. 87] もちろんEinbildungskraft)、少々信じられない。西田全集がNKZという珍しい表記で略記され、それが縦書きのイタリックになっているのも驚く(縦書きのイタリックなど初めて見た)。さらには、開巻いきなり、ラカンやフーコーについての人名紹介の註までがあって、およそこの書物の議論の水準にはそぐわない。かなり実力を欠いた第三者に任せきりにしてしまったのではないかという疑念さえ抱く。というわけで、書物の出来具合という点ではかなり問題を残す。しかしその点を割り引いて考えても、全体としては良書であることにかわりはない。

(2010. 2. 25)


C. G. Jung, Das Rote Buch: Liber Novus, hg. und eingeleitet von. Sonu Shamdasani. Eine Publikation in Zusammenarbeit mit der Stiftung der Werke von C. G. Jung Zürich, 2. Aufl. Patmos [Düsseldorf] 2010.
(ユング『赤の書』)

 凄まじいものが現れた。ユングがみずからの夢を記述し、それを壮大なイメージとして一種の挿絵本に構成したノートの完全ファクシミリ版。ユングの個人的な遺品として、公開が禁じられていた秘義の内容がいよいよ明らかになる。序文にも、「1962年以降、その存在は知られており、研究書による言及も多々なされていた作品が、初めて一般読者の目に触れることになった」と謳われている。1962年というのは、おそらく『ユング自伝』ヤッフェ編(みすず書房、全2巻 1972/73年;原書は1962年刊行)で、ユング自身がこの『赤の書』(そしてその前身の『黒の書』)について書いているのを指しているのだろう。この作品、手書きのノートではあるのだが、それはむしろ「写本」と呼んだほうがふさわしい。ユング自身が細心の注意を払いながら、中世風の見事なカリグラフィーで本文を書き記し、装飾頭文字を加え、さらには随所に頁一杯の挿絵を盛り込むなど、さながらブレイクの『天国と地獄の結婚』を始めとする一連の詩画集のよう。開巻第一頁は、イザヤ書の一節が、中世風書体で、朱書きを交えながら記載されている。知らずに本文だけを見せられたら、中世の写本だと思ってしまうくらい見事な出来となっている。一見に値する(挿絵の一部は、翻訳『ユング自伝 1』の口絵でも紹介されている)。

 ユング手書きのこのIllumination(装飾挿絵本)を忠実に再現した本書のサイズたるや、フォリオ版(現代のサイズ規定ではおよそA3)で、光沢を抑えてやや黄味を帯びた用紙を使い、その重さも相当なもの。190頁の本文に、印刷体に起こした本文全体、そして解説が付されて、全体は350頁ほど。ユングが記したドイツ語部分の本文は、ウムラウトの書き方や、重複文字の省略の仕方など、中世から近世初頭の写本の習慣に従っていて、そのまま読み通すのは少々辛いので、印刷に起こしてくれているのは大変にありがたい。

 「序」によると、「1913年の転機から、ユングはある実験に取り掛かるが、それは1930年まで続き、のちに<無意識との格闘>と呼ばれるものだった。それは、<内的プロセス深くに潜り込み>、<感情をイメージに翻訳し>、<内面の心奥から自分を突き動かしている想像力を掴み取る>技法であった」。そのプロセスを具現化したのが、この『赤の書』別名『新生の書』という次第。「1913年の転機」というのは、ユングが精神分析学会を離脱し、師フロイトと訣別した時期であるし、1930年というのは、『赤の書』の「あとがき」でユング自身が書いているように、「錬金術」に親しみ始め、錬金術の内に、ユング流の心理学の新たな方法を見出していく時期である。その中間の時期の模索がこの『赤の書』に盛り込まれているというわけだ。この間の経緯が、『ユング自伝 1』(pp. 256-269)に紹介されているが、その個所でユングは、『赤の書』の試みを、『ファウスト』第二部、および『ツァラトゥストラ』と重ねて考えている。

 新刊書でこれほど吃驚したのは久し振りだった。しばらく入手困難になっていたが、送られてきた原本は第二版となっているので、おそらく重版されて、現在は入手可能になったのだろう。英語版も同時に出ているらしい。日本語訳も計画されているそうだが、お値段のほうは、原著のほぼ倍の4万円程度が予定されているようだ。

(2010. 2.8)

→ II-1
R・エスポジト『近代政治の脱構築 ―― 共同体・免疫・生政治』岡田温司訳(講談社選書メチエ 2009年)

 フーコー、ネグリ、アガンベンなどが展開する「生政治」の議論に新しい光を当てる思想家として、まずは綱領的な本書が翻訳・紹介された。キーワードは、「生政治」に近接する生物学的語彙をさらに推し進めた「免疫」(immunitas)である。これは「共同性」(communitas)と同じく、munus(義務・贈与)を語幹としながら、一方は「義務をともに(cum)すること」、他方は「義務から免れている(in)こと」といった対比をなす。そのため、「前者〔共同性〕が、みずからを超えたところにみずからを追いやる何ものかを個人に課すとすれば、後者〔免疫〕は、リスクの多い他者との接触から自力でみずからを守り、自分とは相反するあらゆる責務からみずからを解放し、みずからの主観性という殻のなかに自己をふたたび閉じ込めることで個人のアイデンティティを再構成する。コムニタスが、個人を外部に開き、さらけ出し、ぶちまけ、外在性へと放つのにたいして、イムニタスは、外を内へと連れ戻し、外の個人を排除することで、個人をみずからに返還し、自己の皮膜のなかに閉じ込める」(p. 133)。生体は、免疫機構をあまりに強めると、翻って今度は、自分自身の「浄化」を始め、深刻な不全を引き起こす。つまり、自分で自分の内部を攻撃し始めてしまうのである。

 このような対比で考えると、現在進行中のグローバリゼーションは、その内在化、免疫化をますます強め、外部を消去する一方で、その免疫機構に固有の疾患を抱え込んでいるということになる。つまり、免疫とは、否定と排除を介した生の自己保存であるため、「生の否定的な保護は、まさにその反対側に寝返るほどに強化されるとき、結局は、外部の敵もろとも自己の身体を破壊することになってしまうだろう」(p. 161)。ここにこそ、「生政治」が一挙に転じて「死政治」へと裏返る絡繰りが潜んでいるとされ、こうした「自己免疫」の機構にもとづいて、ナチズムの生政治に始まって、コンピュータ・ウィルスやテロリズム、精神薬物学、臓器移植などが総括される。この文脈で考えると、「セキュリティ」願望、清潔信仰が、裏返って排除の論理として働いている現在の私たちの不気味な環境が一種の必然性とともに見えてくる。

 見据えている現象としては、ネグリ/ハート『帝国』やフーコー晩年の議論と同じであり、ホッブズ=ルソー=カント的な「超越論的=超越的」思考に対して、スピノザ=ニーチェの「内在性」の思考に可能性を見出すという論調もネグリらと方向をともにする。しかし、エスポジトの場合、とりわけ「生」と「政治」の関係を、「医学」と「法」の接合と重ね合わせる視点が、新たな可能性を窺わせる。イムニタスとは、「免疫」であると同時に、中世法学での「不入権」、要するに基本的な財産権をも意味するのであり(p. 139)、そうした自己所有と他の排除の論理が、中世から近代へと向かってますます強化され、「自由」や「人格」の基本概念を形成したという論点である。「自由」もまた、義務や拘束を「免れて」いることであり、「人格」もまた、すでにローマ法以来、「自己の財産権を行使できる者」を意味していた(p. 264f.)。

 こう考えると、「共同性」と「免疫」という対比は、最初は単に気の利いた比喩に聴こえるが、それ以上の射程をもつ可能性もありそうだ(今後すぐにでも「免疫化する社会」などという新書あたりが出てもおかしくない)。「免疫」を手がかりに、さらには「自由」や「人格」といった議論を巻き込んで、エスポジトが最終的に目指すのが、最終章の「非人称性の哲学」である。現代のグローバリゼーションにともなう「非人間的な」多くの問題に対して「ヒューマニズム」や「人格」を盾に抗うのではなく、むしろ「免疫」機構にもとづいた「人格」からわれわれがいまだに完全に離れられないところに根本的な矛盾を見るという着想には、共感がもてる。自己の外部に開かれる「ともに」(cum)という思考がそこでは待望される。その際の「ともに」の思想家としてエスポジトが挙げるリストも興味深い。まずは、ハイデガーとバタイユ、ニーチェ、そして「シモーヌ・ヴェイユ、ボンヘッファー、パトチカ、アントルメ、マンデリシターム、ツェラン」(p. 103)、あるいは「ブランショ、ムージル、カフカ」(p. 272)といった具合(何と魅力的なリスト!〔しかし、「ロバート・アントルメ」なる人物は未見 ―― 〔註〕その後、掲示板でのskiamachosさんのご指摘で、『人類』の著者で、作家デュラスの夫のロベール・アンテルムであることが判明。ありがとうございました。〕 私ならさらに、ロートレアモン、アルトーなども加えたい ―― さらにはスウィフト、ベケットら、「ストイックなコメディアン」たちも)

 疑問に感じる点もいくつかある。エスポジトが活路を見出そうとする「内在性」の思想(スピノザ、ドゥルーズなど)と、「免疫」という問題系はどう関わるのかのかというのが最大の問題だろう。本書の前半でも頻繁に言及されるハイデガーの理解がいまひとつ明確にならないのは、この点に関わっているように思える。なぜならハイデガーの思想は、まさに「内在性」、「共同性」(cum「ともに」の思想)、そして「免疫」(近代的な「自由」「人格」)といった問題が交差する場所に位置するからである。この点の展開は、今後紹介されるであろう彼の主著群に期待したい。

 引用文からもわかるように、訳文はおおむね実に見事。翻訳特有の読みにくさをほとんど感じることがない。ただ、最終章のような哲学的な議論になると、副文章や関節代名詞節の処理に甘さを感じるが、それも許容範囲内だろう。また本書には巻頭に、長文の訳者解説「ナポリ発、全人類へ」が付されているが、これがまた良く書けている。最初にこれを読むと、本書の位置づけが明確に理解できるし、本文の読了後に再読すると、問題として感じられる点が先取りされて解説されているのが納得できる。いつもながら見事な仕事振りだと思う。続けて予告されているエスポジト『三人称』の翻訳を鶴首して待ちたい。

(2010. 2.2)

→ II-3
小谷野敦編著『翻訳家列伝101』(新書館 2009年)

 明治以降、外国語で書かれた文学の翻訳に携わった人びとを英・独・仏・露・中国を中心に、児童文学・SF・推理小説などを加えて、その業績を紹介していくムック本。企画そのものは面白いし、類書もあまりないとは思うのだが、内容は期待を裏切る。300頁あまりの冊子で101人を取り上げるのだから、個々の記述が物足りないのは当たり前なのだが、問題はさらに根本的なところにある。編者・著者の翻訳に対する姿勢がまず理解不能なのだ。「『源氏物語』の現代語訳はどれがいいとか、英訳はどれがいいかという議論にもさして興味はない。日本人は原典が読めるのだし、『源氏物語』などという、厖大な量の注釈が出ている作品についてそんなことに憂き身をやつすのは、人生には限りがあるのだから、時間の無駄である」(p. 9)。思わず目を疑うような文章である。こういう感性の人がなぜ翻訳者を論じるのか大いに疑問だが、内容もそれに見合って記述は相当にお粗末。

 翻訳者を紹介するにも、翻訳の文章そのものの紹介ではなく、所属(特にこの著者にとっては、東大教授であるかどうかは最重要なことらしい)やら受賞歴などが基準となっているようで、肝心の翻訳そのものの質がどうであるのかは一切触れられることがない。かといって、翻訳者の伝記を通じた日本の近代文化観が示されるわけでもない。その評価も主観的で、例えば種村季弘についてこんな具合。「いくぶん、現代の内田百閒のような感じで人気があるのだろうが、大学教授をしていたし、創作があるわけもないし、それほど興味深い人物とは思われない」(p. 172)。根拠薄弱でいかにも主観的な評価である(もっとひどい引用文はいくらでも挙げられる)。SFなども取り上げられてはいるが、もちろん浅い紹介で、返す返すも残念な出来栄え。もちろんデータとしては役に立つし、人名事典としての役割はある程度は果たしているので、ムック本に目くじらを立てることもないのだが、個々の記述、そして何よりも翻訳に対する感覚という点ではあまりにも杜撰に思える。

 同じシリーズのムック本でも、伊藤典夫編『SFベスト201』(新書館 2005年)などはムック本の鑑のような仕上がりだった。この場合は、通り一遍の紹介にならないように、編著者が本気で取り組んでいる意気込みが伝わってきた。索引の作り方も実に丁寧。『翻訳家列伝101』(こちらには索引すら付されていない)も、せめてこれくらい、読者に対する敬意をもって欲しかった。

(2010. 1.31)

→ Books

Historisches Wörterbuch der Rhetorik, Bd. 9, Darmstadt [Wissenschaftliche Buchgesellschaft] 2009.
(『修辞学概念史事典』第9巻 St-Z)

 数年前『哲学概念史事典』が完結したのを承けて、同じ主旨の本企画『修辞学概念史事典』もいよいよ全巻完結。規模的には『概念史事典』の3分の2ほどだが、それでも十分に大部の事典である。とはいえ、「修辞学」と銘打っているにもかかわらず、項目の立て方や記述の方針には、あまり独自の思想性を感じるものではない。どちらかというと、文学・芸術学で常識的に取り上げられる大項目を挙げるにとどまっている印象がある。今回の最終巻でも、項目は「素材(Stoff)」「構造主義(Strukturalismus)」「テクスト(Text)」「トポス(Topos)」『機知(Witz)」......といった具合。項目も、以前Humanismusの項目を比較して、『哲学概念史事典』と重複しているのに気づいた。おそらく執筆者も重複し、記事も使い回しているところが多々あるように思う。その点でも、あまり独自性を感じない事典となったが、最後は索引で判断したい。『哲学概念史事典』のフォーマットを踏襲している以上、おそらくこの事典も、一年くらいかけて、索引巻がCD-ROM付きで出されることだろう。このときに、「修辞学」固有の項目がどれほど拾われているかが分かるはずだが、そこでこそこの事典の真価が見えてくるだろう。 → I-1


上村忠男『ヴィーコ ―― 学問の起源へ』(中公新書 2009年)

 久し振りに新書らしい新書。ヴィーコを概括するスタンダードな文献になると思う。なかなか捉えがたいヴィーコの思想を、初期の学問論から説き起こし、『新しい学』も、その主題と方法論を区別しながら章立てを設けて解説するなど、きわめてバランスの良い叙述になっている。ヴィーコと科学アカデミーとの関係、マールブランシュとの親近性などにも多くの紙幅を割いているのも示唆的。著者自身の『ヴィーコの懐疑』(みすず書房)や『バロック人ヴィーコ』(みすず書房)などは、問題の掘り下げ方に物足りない感触をもったが、今回の新書ではそれがプラスの方向に働いたように感じる。ヴィーコと宣長の近さ、ガダマーとの対比など、まだまだ深めてほしい主題がちりばめられているが、新書という性格上、示唆だけで終わったとしても、それはそれで構わないだろう。ヴィーコの方法論が、バーリンやヴェリーンの主張とは異なり、「共感」にもとづくものではなく、むしろ世界をテクストと見る「文献学」によるものであるという見解にも説得力がある。巻末の文献註も豊かで、新書として押さえるべきところが押さえてあるという好印象をもつ。ただし、「バロック人ヴィーコ」という主張は、『新しい学』の寓意扉絵や肖像画のみが根拠となっているので、これは個人的には納得できない。
 中公新書には、次いで思想史家関係のラインナップとして、野沢協氏の『ピエール・ベイル』などもお願いしたいところだ。(ちなみに、最近の中公新書は「帯」のデザインも目を惹く。『ローマ喜劇』などもなかなか衝撃的な「帯」だった)。 → I-1



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