蒐 書 記

Libris novitas lenocinatur 新奇さは書物に魅力を與ふ


レヴィナス『全体性と無限』熊野純彦訳(上・下、岩波文庫、2006年)

 本書には15年以上前に、先駆的な合田正人訳があるが(国文社 1989年)、文庫で新訳がなされたのはありがたい。合田氏の獅子奮迅の努力もあって、最初の邦訳から大幅に進んだレヴィナス理解を背景としていることも手伝って、何よりも熊野氏の新訳は、訳文そのものが非常に読みやすく、質の高いものになっている。あらためて読み直してみて、その日本語のたたずまいに感心する。カント、ハイデガーの新訳にも精力的に取り組んでいる熊野氏ではあるが、何よりも長年取り組んでいるレヴィナスとは、その文体の相性も最もよいように感じる。かなり平仮名が多い文字遣いで、特に動詞のほとんどは「開く」(平仮名にする)という方針に従っているようで、最初はやや違和感があったが、レヴィナスの場合、それが独特のやわらかい雰囲気を作り出して、先へ先へと読み進めたくなる。何よりも特筆すべきはその訳註にある。合田氏のものも、どうやって調べたのかと思わせられる文学作品の典拠などがかずかず盛り込まれており、本書でもそれがそのまま活かされている個所も多いが、本書では、本文が言及している哲学史上の事柄を、簡潔にして要を得た原典からの引用で敷延している。実に的確な引用が多く、舌を巻く。

 哲学的な評価は手に余るが、それにしても本書が20世紀の一大名著だとは言えると思う。加えて、西洋哲学の伝統の中で相当な異端児であるということも。「顔」や「外部性」、「無限」を主題とする本書の思想は、これを認めてしまうと、それまでの西洋哲学の伝統をともに離れなければならないくらいのインパクトがあるのではないだろうか。ハイデガーの影響の強い書物だが、同じく西洋哲学の「解体」という意味で批判的対決を試みたそのハイデガーに比べてもさらにラディカルである。ハイデガーはプラトン・アリストテレスに「形而上学」の起源を見出して、そこから抜け出るために前ソクラテス期のパルメニデスやアナクシマンドロスに遡るが、レヴィナスに言わせれば、そのような姿勢は、「同一性」や「全体性」の思想の枠の中で動いている点では、所詮はたいした違いではないことになる。

 レヴィナスのいう「顔」は、他者との対立でもなければ、親和的な一体化(融即)でもない、分離されながらもそこで何かが起こる淡い中間領域を指すものである。そのために、「愛撫」の思想、あるいは「他者の快楽への快楽」としてのエロスの哲学が展開される。これなどは、およそハイデガーには期待しえない論述だろう。男女のエロス的関係からの「多産性」の理解、しかしそれはけっして生物学的な「生殖」ではなく、むしろ「主体性」そのものの秘密に迫るものであるという点が非常に強い印象を与える。「<私>は、父性において自己自身から解放される。かといって、一箇の<私>であることをやめるわけではい。<私>がその息子であるからである」(下214)。

(2015. 6. 6 → II-3)


岡本源太『ジョルダーノ・ブルーノの哲学 ―― 生の多様性へ』(月曜社 2012年)

 ブルーノについて書かれた邦語単著としては、清水純一『ジョルダーノ・ブルーノの研究』(1970)、『ルネサンスの偉大と退廃』(1972)以来だろう。力作とは言えないが、非常に読みやすく、ブルーノについてのあるしっかりした思想の輪郭を伝えた好著。流れるように読めて、短時間で読み切れるというのも、ブルーノのように錯綜した対象の場合はむしろ長所だろう。細部に誘い込まれて迷路を引きずり回されるというのとは違って、単刀直入に、標題にある「生の多様性」の思想をすっきりと示している。

 詳細な「研究書」というのとは違うが、叙述の随所に著者の文献渉猟や、背景知識への目配りが伺えて、その点でも安心して読むことができる。読者にとって瑣末に感じられそうな議論は註にまとめた辺りの配慮も功を奏している。つまり、全体が「読み物」として実によくできているのである。ときおり挟まれる図像学的考察も効果的で、巻頭のカラー図版も本書にはふさわしい(ただし、二本の栞紐というものものしい処置は、本書のように軽い本には似合わないだろう。白と黒のコントラストが表紙・帯とも呼応してデザイン的には秀逸なのだが)。

 ブルーノの思想に関して、伝統的に誤解されがちなポイントを明確に押えながら、その特質を浮き彫りにしている。ブルーノの思想が、ルネサンスの「マクロ・コスモスとミクロ・コスモスの照応」とは違い、およそ序列や秩序を認めない純粋な多様性の世界であるというのが、まずは大きな論点となっている。さらには、クザーヌスの「対立物の一致」の思想からの影響についても、「絶対性」の問題の枠内で、最大と最小の一致という認識論的理解を中心とするクザーヌスに対して、ブルーノはその矛盾対立を道徳的・実践的な場面で理解し、人間の相対性とともに、多様な生への生成変化を強調しているといった対比も明確である。中世末期、とりわけオッカムに見られる「絶対的能力」と「秩序づけられた能力」の区別に対しても、ブルーノは異を唱え、「意志」による神の能力の制限を認めずに、無限の多様性こそを宇宙の本質と考えているという指摘も興味深い。この論点は、ブルーメンベルクの思想史にもすでに指摘されているが、それを「英雄的狂気」の議論と結び付けて、ブルーノ思想の全体像に繋げていく明確な論述は本書の大きな特徴だろう。美学・道徳論との観点とも関連づけられているのが、本書の叙述を豊かにしている。

 ブルーメンベルクは、クザーヌスとブルーノの類似性を指摘しつつ、にもかかわらずクザーヌスとブルーノのあいだには大きな相違があり、それこそが「近代」という時代のエポックなのだと語っていた。この点は、本書の著者に語らせると、このようになる。「ブルーノが開いた<近代>とは、まさしくこの生の多様性の発見だった。……知性や理性の所有ではなく、自然への内在を基盤にして定位し直された人間は、神の似像という特権を剥奪され、万物の中心の座から追放される。とはいえ逆説的なことにも、そによって人間は、むしろ無限に変容しうる能力をあてがわれ、人間的なるものを超え出るかぎりで人間であることになる。生きて流転しつづける自然のなか、葛藤に引き裂かれつつも感情にしたがいながらいっそう流転しつづけることこそが、ブルーノによるなら、人間に多様性を、自由を、尊厳を与えてくれるのである」(p. 175)。現代のドゥルーズやホワイトヘッドにも通じる論点を、ブルーノだけに限定して爽快に示した快著と言えるだろう。

(2015. 4. 25 → III-2)


鈴木道彦『フランス文学者の誕生 ―― マラルメへの旅』(筑摩書房 2014年)

 書名に表れていないため見落としがちだが、これはヴィヨン、ボードレール、マラルメの研究者・翻訳者として著名な鈴木信太郎をめぐって、その息子である鈴木道彦氏が綴った家系史である。著者が物心ついたときには、父親である信太郎氏はすでにフランス文学者、あるいは稀覯書の蒐集者として確立していたので、息子だからといって、証言者として有利であるわけでもない。鈴木信太郎の「人となり」といった視点でもないので、身近な著者が記したとはいっても、取り立ててその立場が活かされたものでもない。

 文学者としての評価や資質ということよりも、ごく一般的に、鈴木信太郎が生まれた環境、とりわけ父(著者にとっては祖父)からの家督相続が信太郎氏のフランス文学の活動を全面的に支えていたことが語られているといった感が強い。鈴木信太郎その人に関しては、新たな光が当てられることはなく、資料は全集に収められたものにおおむね限定されている。著者自身の思い入れや、独自の視点はあまり見られることなく、いわば遺産管財人としての責務を果たしているといった役どころだろう。鈴木信太郎に対する人物像としては、引用されている加藤周一の文章などのほうがむしろ印象的。以下その一節。

 「万巻の書は床から天井まで、四方の壁と部屋の空間の大部分を埋めていたが、一隅には大きな机があり、机の前には廻転椅子があった。小柄な主人公はその巨大な椅子にかけ、左右に椅子を廻しながら、太平洋戦争といった瑣末な事件には一切触れず、世紀末海彼岸の風流詩文を語って倦むところがなかった。マラルメ詩集のいくつかのヴァリアントについて、ピエル・ルイスの偽作『ビリティスの歌』について」(p. 270: オリジナルの出典は全集第一巻の月報)

 本書の提起した鈴木信太郎像は、本人の晩年の次の述懐に尽きていると言えるだろう。「私も、日本フランス文学の伝統の通り、辰野隆や山田珠樹や渡邊一夫と同じく、人生五十歳まで親父の臑を齧り続けて暮して来た。親父は私の三十歳の時に死んだが、其の後も臑は塩漬けのハムになつて残つていたわけだ」。

 そしてもうひとつ印象的なのは、中村真一郎の回想に現れる鈴木信太郎に触れて著者が語る一文である。「信太郎のマラルメ研究の深層には、まず諸橋轍次があり、それとの関係で漢籍があり、その一方で鴎外の史伝があった」(p. 244)。

 それにしても、一時期山田珠樹とともにゴルフに熱中し、東大の講義をすべて朝一番にもってきて、午後にコースを回る生活を続けたため、東大仏文の卒業写真では、教授と助教授だけが顔が日焼けでひときわ黒かったなどというエピソードは、いまでは考えられない大学の自由さと気ままさを感じさせる。

 鈴木氏が最大の関心を払い、細心の注意をもって世に出したフランス文学の美書についても記述があるが、その書影などももう少し多めに欲しかったというのは、ないものねだりだろうか。

(2015. 3. 11)


岡本裕一郎『フランス現代思想史 ―― 構造主義からデリダ以降へ』(中公新書 2015年)

 標題は20世紀後半以降のフランス思想史ということだが、ついにそのような主題が新書で出される状況になったということに時代の流れを感じる。レヴィ=ストロース、アルチュセール、フーコー、ドゥルーズ=ガタリ、デリダなどが主な対象。ソーカルの「知の欺瞞」事件から説き起こすあたりはあまりセンスを感じないし、それに対する応答も表面的なので、やや失望した前半だったが、後半のデリダ辺りからはよい叙述になっていると思う。レヴィ=ストロースの構造主義を、構造の変換関係に注目して整理し、群論との関係を指摘しているのはよい観点だと思うが、構造主義を初めて知る読者には、あれだけの説明で群論を理解することはできないだろう。フーコー、ドゥルーズに対する理解も、自己規律から生政治に移行し、21世紀の「帝国」に繋げるのも整理としては明解だが、説明としてはごく普通のものだろう。

 ただデリダに関しては、70年代以降のデリダを重視し、「誤配される郵便」の論点を強調しているのは面白い。さらに「ポスト構造主義以降」を扱った最終章では、フェリーとルノーの『68年の思想』にもとづきながら、いわゆるフランス現代思想の「反人間主義」は、現代の動向を見誤ったものであり、そのために、フーコーも後年は「倫理」や「主体」の主題に立ち返り、デリダも「民主主義」や「歓待」といった論点を打ち出すようになったという解説は、かなり有益なものに思える。ドブレの「メディオロジー」やスティグレールに言及して終わるのも刺激的。

 著者は元々はヘーゲルを専門としていたということもあって、フランス的なレトリックに溺れずに、淡々と叙述が進むので、現代思想を整理して理解するには結果的に好適の新書になっているように思う。むかし読んでピンと来なかったグリュックスマン『思想の首領(ドン)たち』やスティグレールの『象徴の貧困』などが、こうした文脈だとかなり理解できるような気がしてくる。

(2015. 2. 21 → II-3)


吉田秀和『マーラー』(河出文庫 2011年)

 偶像破壊的で実証的な前島良雄『マーラー』とは対極で、むしろ自然と死の音楽としてのマーラー像を作り上げるのに貢献したものと言えるかもしれない。アルマ・マーラーの回想録などを典拠としている部分も多いので、古いスタイルなのだろうが、いまでも一読に値するように思える。小さな録音評なども集めているが、全体としてはおおむね各曲に触れていて、バランスも悪くない。最も大きな章は「マーラー」と題される60頁ほどのまとまりのある文章。そこではシェーンベルクのプラハ公演を参考にして、マーラーの全体像を示そうとしている。シェーンベルクから、マーラーの旋律形成について語った以下のような文章が引用されている。

 「マーラーは最後まで調性的な音楽を書き、したがって、いろいろなコントラストの中でも、彼が使用できたのは、和声的にいうと、そんなに多くなかった。そうやって書かれた彼の旋律がどんなに長いものになりえたか、これは信じられないくらいである。長くすれば、ある種の和音がどうしても反復されないわけにはいかないのに、少しも単調さが生まれない。いや、版単に主題が長くなればなるほど、終局的な躍動はますます大きくなる。主題は発生状態(Status nascendi)ですでに白熱していたので、ある時間がたっても、疲れるどころかますます迫力を加え、ほかのものだったらとっくにしなびてしまったようなところで、むしろ初めて最高の燃焼に達する……」(p. 21)。"status nascendi"のくだりがいい。発生期の「潜勢力」といったところか。それで言うと、マーラーの音楽とは、まさにこうした潜勢力によって網目状に構成された「アレンジメント」というところか。

 吉田氏自身は、バーンスタインのマーラー演奏に触れながら次のように語る。「〔バーンスタインと同様に〕マーラーも自我意識に悩まされた人だが、彼は決して自己中心に終結できず、自分をとりまく外部世界に対し、いつも注意深い態度で立ち向かわずにいられなかった。「生と死」とか「復活」とか「人生と自然の意味」とか、自分一己を超えた普遍的な問題への答えを常に求めていた人である。それが彼の交響曲の中に、森、花、小鳥、霧、風といった自然に通じる響きが吹き通っている理由だし、天使や子供のように人間の隣にいて、しかも人間を超えた存在に対する比類のない柔らかな感応性の働きや豊かな幻想性となって、彼の音楽のいたるところに光と色を与えている理由である」(p. 98)。

 名文だと思う。中沢新一のマーラー論「人類学者の手記」(『虹の理論』筑摩文芸文庫、所収)に通じるマーラー観だろう。一般読者が音楽についての書物に期待するのは、こうした音楽的「ヴィジョン」ではないかと思う。

(2015. 2. 18 → music)


前島良雄『マーラー ―― 輝かしい日々と断ち切られた未来』(アルファベータ 2011年)

 「死の影に脅えた不遇な天才作曲家」という従来のマーラー・イメージを覆す最近のマーラー研究。一種の偶像破壊であり、あまりにロマンティックに捉えられすぎているマーラーを、指揮者としての活動も含めて正確に捉えようとする。例えば、マーラーの一家がそもそも死に取り巻かれていて、兄弟・姉妹、そして自身の子供までが亡くなっているという事実に対して、19世紀の乳幼児の死亡率から見るなら平均的な数にすぎないとしてみたり、マーラーの心臓病の診断は誤診だったといったような事実を挙げていく。

 吉田秀和『マーラー』などに代表される、死に取り憑かれた形而上学的作曲家というイメージを壊したいのだろうという狙いはわかるが、かといって、それに代わる新たな音楽的ヴィジョンが呈示されるわけではない。こういう傾向は、最近の人文系の「最新研究」によく見かける姿勢でもある。巨大化されすぎた偶像を引き戻し、その実物大の姿を「実証的に」浮き彫りにするという方向のものだが、そういうものは、最後には「だから何?」と問いただしたくなるようなものも多い。

 ただ本書では、指揮者としてのマーラーの活動が克明に追われていて、これはきわめて有益な叙述となっている。ワーグナーの楽劇を省略せずに全編上演する習慣を広めたのはマーラーのお蔭と聴くと、感謝の念も湧いてこようというもの。ウィーン国立歌劇場を牛耳って、各地での演奏に飛び回っていた精力的なマーラー像が浮かび上がる。その成功はちょうど20世紀のカラヤンを思わせるものだったようだ。もしマーラーが作曲家としてこれほど名声を博すことがなかったら、ハンス・フォン・ビューローとワルターの中間世代の大指揮者として歴史に残ったことだろう。もちろん録音は残らない時代ではあったが。

 もう一点、「補足」扱いにはなっているものの、「<大地の歌>の歌詞について」(235-240頁)は面白い。「大地の歌」の歌詞は、ハンス・ベトケによって翻訳された中国の詩が歌詞に選ばれていると言われるが、そのベトケは実はまったく中国語のできない人で、エルヴェ・サン・デニ公爵『唐の時代の詩』とジュディト・ゴーティエ(父はテオフィル・ゴーティエ)『中国の叙情詩』を元に(ともにフランス語)、中国風の詩集『中国の笛』や『翡翠の書』をいわば翻案として公刊したらしい。したがって、それぞれの詩は厳密には原詩の翻訳と言えるものではない。第三曲の原詩が長いあいだ議論されていたのは、ドイツ語原文に「陶製の四阿」という不思議なものが出てくるのが災いしていたようだ。aus grünen/ Und weissen Porzellanというのがその部分で、クレンペラー盤の対訳でも「緑と白の陶器のあずまや」となっている(なんのこと? しかしドイツ語からの訳としてはそうなるほかはない)。結局それは、「陶家の四阿」、要するに、「陶さんの家の四阿」をベトケが誤訳したためとわかって、一件落着したそうだ。

(2015. 2. 16 → music)


H. Blumenberg, Paradigmen zu einer Metaphorologie, Kommentar von Anselm Haverkamp, Suhrkamp 2013
ブルーメンベルク『隠喩論のパラダイム』

 ブルーメンベルクの代表作『隠喩論のパラダイム』に、膨大なコメンタールを付けて編集した新刊。註釈者のハーヴァーカンプによれば、ブルーメンベルクのテクストは研究者でも容易に読みこなせるものではないために、コメンタールを付した版を公刊するとのこと。本文が200頁弱に対して、註釈が300頁ほど、全体で500頁を超す厚い新書判。本文テクストの紙面は、行数を示す5行おきの欄外数字と、註解が付された部分を示す矢印が置かれていて、賑やかな欄外となっている。

 ブルーメンベルクは多くの場合、出典を具体的に示さずに古典から現代までの文献に言及するので、何を指しているのかを理解するのが大変なのだが、本書のコメンタールによって、その苦労が大幅に軽減することになった。ただし、本書のコメンタールは、しばしば思いつきや連想のように話が拡がっていく場合があって、必要不可欠の註記を簡潔に記したというものではなく、むしろそれ自体が読み物のようになっている。適宜文脈を要約して示してくれたり、補足説明を加えてくれたりと、とにかく親切で楽しい解説になっていて、かなり遊び甲斐がある書物。コストパフォーマンスにも優れている。大学のゼミなどで、本文を輪読し、適宜コメント部分を使っていくといい演習になるかもしれない。

 それにしても、現代の思想家で註釈付きのテクストが出るなど、異例中の異例だろう。アドルノやブロッホといった、難解をもって鳴らす思想家の著作ですら、そのような例はないので、ブルーメンベルクがドイツ人研究者にとってすらいかに難物かが想像できる。

 最近ではフランスでもブルーメンベルクへの注目が少し見られるようになっており、本書のフランス語訳がすでに存在するし、英訳も最近公刊された。日本はこの点ではなぜか大幅に遅れを取っているのが残念。

(2015. 2. 15 → II-1)


大田俊寛 『グノーシス主義の思想 ―― <父>というフィクション』(春秋社 2009年)

 グノーシス主義について、ナグ・ハマディ文書、とりわけ『ヨハネのアポクリュフォン』、ヘルメス文書『ポイマンドレース』、ウァレンティノス派の『三部の教え』などにもとづいて、その基本的な構図を明確に描いている。グノーシス思想は、文献的にも錯綜した問題があり、全貌をすっきりしたかたちで理解することが難しいが、本書は大胆に単純化することで、その全体像を大づかみに示すことに成功しているように思える。グノーシス主義の歴史的背景として、「プラトン主義的形而上学、ストア主義的自然学、〔オウィディウスに代表される〕混淆主義的変身譚」の三要素を挙げ、また思想的には象徴的な「父」の探求、およびナルキッソス神話に現れる自己認識という、ともに精神分析的なモチーフを織り込むことで、全体がすっきりした展開になっている。

 霊的なプレーローマ界を構成する生命・真理・愛・知恵のうち、知恵(ソフィア)が自身の「映像」を生み出そうとする過誤によって、神々からの逸脱である「ヤルダバオート」を生み出し、これがこの現実世界の原理(旧約聖書の神)となる。こうした自己認識と自己の像化の問題が、世界の存在論的・宇宙論的起源と結びつけて考えられている点に、グノーシス主義の独自性がある。しかもここで実現される自己の像化は、プラトン的な「模倣」(ミメーシス)の対極に位置するものでもある。「プラトン主義的形而上学においては、模倣が繰り返されることによって、一者(至高神)から知性(イデア)が、そして知性から魂が流出するが、そのとき<似像>(コピー)として生み出されるものは、自らの<原型>(オリジナル)の存在に対して従順であり、それを忠実に賛美する。しかし......〔グノーシス神話でのソフィアの物語では〕、「<似像>は<原型>を模倣することによって、いまやその地位に取って代わろうとする。言わばそれは<簒奪の模倣>なのである」(103頁)。

 このような像理解の相違が、三位一体論の理解にも現れることで、グノーシス主義は、初期教父たちのキリスト=ロゴス論から離れることになる。グノーシス主義が提示したのは、ミメーシスの論理を引き継いだ三位一体論に対して、むしろ「似像」が「原型」に対して反逆を起こす屈折した像化だったというのである(221頁以下)。「グノーシス主義という思想的活動にとって、、その生産力の一つの源となっていたのは、表象や言葉には<欺き>の性質が潜んでいるということ、それは誰かによって盗まれ、不正に使用されることがある、という観念である」(261頁)という本書のグノーシス観は、現代思想的にも哲学的にも興味深いものがある。

 複雑なグノーシス神話のプロットを紹介する部分も、きわめて読みやすく整理されており、グノーシス主義の全体像を概略するにはよい手引きになるだろう。筒井賢治『グノーシス』(講談社選書メチエ)は堅実ではあるが、グノーシスの思想的意味という点では、具体的な焦点を結びにくいのに対して、本書はかなりその主張が鮮明で、考えさせられる点が多い。ただし、そのようなスタンスにもかかわらず、本書では、先行研究に対する思い切った批判が目立ち、それがやや大言壮語の印象を与えかねないのが残念。

(2012. 1. 7 → IV-1)


コルフ『人間主義と浪漫主義 ―― 近代に於ける生の解釋とゲエテ時代に於けるその發展』久保助三郎譯(櫻井書店 1946年)
H. A. Korff, Humanismus und Romantik. Die Lebensauffassung der Neuzeit und Entwicklung im Zeitalter Goehtes

 著者コルフの代表作は、『ゲーテ時代の精神』Geist der Goetheszeit. Versuch einer idealen Entwicklung der klassisch-romantischen Literaturgeschichte, 1927, 1930, 1940)。ゲーテ時代、要するにドイツ人文主義の時代の精神史・文化史の古典であるが、三巻本の大冊なので、その簡単な案内として書かれたのが本書。実に要領良く、古代の人文主義(キケロ時代)から、ルネサンス人文主義を経て、ドイツ人文主義に至る流れが明解に叙述されている。これには、本訳書の前に、同じく『人間主義と浪漫主義』として羽白幸雄譯で改造社文庫から1942年に出ていた。改造社版も現代十分読める翻訳だが、読みにくいことには変わりない。久保助訳はこれを踏まえていることもあって、だいぶ読みやすくなっている。加えて、付論として、「ゲエテの生の理念」を収録している。

 本文は,ドイツ人文主義を中心に、人文主義(人間主義)の精神を追跡し,宗教改革をひとつの大きな節目としながら,ルネサンスの世俗的・主体的人間性を継承するファウスト的・プロメテウス的人間像と、古典的・調和的な古典的人文主義とを対比する構図になっている。最終的に,キリスト教的な超越性に反発して生じたはずの人間主義が,形而上学的要求を満たすために浪漫主義へと舵を切っていく過程が説得力をもって語られている。

 この分野の代表作とはいえ,短期間に複数の翻訳が出ていることに驚かされる。最近ではドイツ人文主義に関するコンパクトな良書が手に入りにくくなっているため,訳し直してもう一度出てもよさそうに思う。

(2014. 1. 8 → IV-3)



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