蒐 書 記

Libris novitas lenocinatur 新奇さは書物に魅力を與ふ


『恐怖の表象:怪物たちの図像学』(『武蔵野美術』no. 119: 2001)

  書棚をあちこち見ていたら、どういう経緯で入手したのかわからないが、これが出てきた。武蔵野美術大学が季刊で出していた雑誌のようだが、特集を組ん で実にしっかり作られている。書き手もテーマによって選んで依頼しているようで、冒頭には種村季弘・谷川渥の対談が掲載されている。西洋、中国、日本 など、テーマの配分も周到に考えられている。大学で作る「紀要」のたぐいではなく、商業誌として自立したものとして出していたようだ(現在は続いてな いらしい)。何よりも、大判の判型を活かして、なおかつ「美術大学」のスタッフが協力しているのか、ふんだんに図版が盛り込まれ、そのセンスもまた抜 群。短いエセーにもきちんと多少の意外性のある図版が添えられている。連載で杉浦康平のブックデザインについての紹介がなされていたり、90年代くらい のテイストを色濃く表している。『エピステーメー』や『デザイン』など、贅沢な雑誌文化が華やかなりし時代があったのを感慨深く思い出す。図像そのも のは現代のインターネットで圧倒的に情報へのアクセスは容易になったが、それをどういう配置で見せていくかという文脈づくりの点では、現代はかえって まずしくなっているようにも思える。

 本書の特集「恐怖の表象」は「怪物論」だが、この怪物というテーマはなかなかに奥が深い。もともと「モンスター」の語は、ラテン語monstrumに由来 するが、その語源はmonere(警告する)ということで、神からのシグナルなのである。本来は神による創造の秩序において、被造物の本質が決まっているの なら、それらを混交し混乱を招くような逸脱は起こらないはずなのだから、その出現自体も謎である。その一方では、創造の多産性からいえば、あらゆる混淆 が起こりうる。その点で、やはり「怪物」という存在は、キリスト教的世界の周縁に立ち現れる不可思議なのである。

 冒頭の対談者・種村季弘氏は、初期に『怪物のユートピア』、その後『怪物の解剖学』といった書物を出しているほど、このテーマに入れ込んでいる(特に 後者の熱量はすごい)。同じく澁澤龍彦にも怪物論があるが、それに比べると澁澤的アプローチはあくまでもコレクションであるのに対して、種村氏は 怪物の人工的創造、機械学の側面に大きく傾倒している。ゴーレムやフランケンシュタインの系譜であり、ダイダロスの末裔たちの作品群である。中世では アルベルトゥス・マグヌスが機械仕掛けの人造人間を作り、そのお喋りがうるさいと弟子のトマス・アクィナスをそれを壊したとかいう逸話がある。また デカルトが連れ歩いていた女の子が実は人造人形だという噂話がまかり通っていたらしい。ホムンクルス幻想である。そしてもちろんそれは、ゲーテ『ファウスト』 第二部に見事に形象化される。自然発生的な怪物と対極にありながら、怪物性という点では通底する二つの系譜である。

(2024. 1. 16)


諏訪哲史『偏愛蔵書室』国書刊行会、20014年)

 種村季弘に憧れ、国学院でその門を叩いたという著者のエセー集。書物について、しかも書名にあるように、一筋縄ではいかない癖のある書物を取り上げた 一連の連載エッセイ100篇をまとめたもの。種村季弘好みの書目選びが基本にはあるが、それに加えて、著者ならではの「忘れらた本」という異様な書物たちが 途中20冊ほど現れる。石上玄一郎「鰓裂」、小田仁二郎『触手』、荒木良一『妖花譚』、秋山正美『葬儀のあとの寝室』など、いまでは古書店でも手に入り にくくなった書物を取り上げている。それぞれに著者所蔵本の書影が掲げられているのも嬉しい。

 本書の何よりの特質は、一遍一遍の対象となった書物が考え抜かれて選ばれており、しかもそれについてのエセーも手を抜くことなく、それぞれがわずか 見開き2頁にもかかわらず、強烈な印象を残す。このわずかな枚数の中で、対象作品の「紹介」は不可能であり、本来なら引用も難しいが、これらのエセーでは 著者ならではの感性で取り出された引用が的確に挟み込まれている。

(2018. 11. 28)



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